TellerNovel

テラーノベル

アプリでサクサク楽しめる

テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

テラーノベルの小説コンテスト 第4回テノコン 2025年1月10日〜3月31日まで
シェアするシェアする
報告する

アパートの入り口で、瑞稀は奇妙な呼び声めいたものに気づく。

黒い毛が所々抜け落ち、老衰したかのような一匹の子犬が、よろよろと瑞稀に歩み寄る。そして、なにか食べたい、とでもいうように、くぅん、とか細い声を発した。

——そういえば、今朝ここから出てきたときもこの子がいたな。

瑞稀はしゃがんで犬を見た。目を合わせようとせず、四肢を立てているのが精一杯とでもいうように、身体を震わせていた。

もうすぐ夜が来る。太陽は山の中に沈みかけていた。

「……ちょっと待っててね」

急いで自室に戻った瑞稀は、冷蔵庫から牛乳を取り出し、スープ皿にそそいだ。

ふたたびアパートの入り口に戻ると、あの犬はまだ身体を震わせて立っていた。

瑞稀はそのそばにそっと皿を置いた。犬は毛羽だった尻尾を振りながら、皿に口をつけた。ひと口舐めると、鼻つらがざぶんと皿に浸かってしまうほどの勢いで、牛乳をすすりはじめた。

「かわいそうに。お腹空いてたんだね」

瑞稀は、無我夢中で牛乳を飲み続ける犬にそっと手を添えた。すると犬は電気が走ったようにびくんと跳ね、摂食を中断してしまった。

「あっ……ごめんね。大丈夫だよ、わたしは何もしないよ」

そう言うと、犬はまるで意味を理解したかのように、わん、と吠えてしっぽを振ってみせた。

それから残りの牛乳を全て飲み干すと、もう一度、わん、と声をかけ、瑞稀に背をむけ走り去った。

犬っていいなあ、と、瑞稀は感じていた。街外れとはいえ、このあたりに暮らしているとこういう機会もあまりない。犬と触れ合うことで心が少しだけ癒されたような気がしたのだ。






仕事を終えた瑞稀は、大きなため息をついてオフィスを出た。

今日は失敗が重なり、上司に厳しく叱責されたのだ。かといって、塞ぎ込んだ気持ちを発散できる場所もない。

——昨日の子、今日も会えるかな。

そういえば、朝はあの場所に子犬がいなかった。今日もし会えたらまた牛乳をあげるつもりだった。

電車を降りて、駆け足気味でアパートへと向かう。すると、入り口付近に犬がいるのが見えた。

「あっ、いた!」

子犬の姿を確認すると、瑞稀はすぐさま駆け寄った。

「あれ」

昨日会ったボロボロの身なりの子犬は、瑞稀を見つめ、くぅん、と食事をせがむ。その隣に、同じく黒い毛の、ひとまわり大きな犬がいた。その犬もかなり痩せているようにみえた。

「お友だちかな? それとも、お母さん?」

だがどちらにしても、2匹には栄養が必要だった。

「牛乳とってくるね、待っててね」

昨日と同じものをふた皿、そそくさと用意する。すると2匹とも顔を牛乳に突っ込み、恐ろしい勢いで飲みはじめるのだった。

よっぽどお腹が空いていたのだろう。この犬の飼い主はどんな人なのか、想像するだけで腹立たしい。けれどそのおかげで、瑞稀には犬たちと触れ合う時間が与えられている。

「よかったね」

そう語りかけると、牛乳を平らげた大きい方の犬が、わん、と、応えるように吠えた。すると、まだ牛乳を飲みきっていない方の子犬の皿に、横から頭を突っ込んだ。

「あっ」

だが特に喧嘩には発展せず、2匹で仲良く、しかし恐ろしいスピードで牛乳を平らげた。満足した2匹は、薄暮の中、どこかに消えていった。

「よかった——」

瑞稀はつくづく安心することができた。もし飼い主が親権を投棄しているなら、あの2匹を飼おうかな、などと考えていた。でも、この安らかな時間は長く続かない気もしていた。





黄昏時の電車に揺られながら、瑞稀は1.5リットル入りの牛乳パックを大事そうに抱えていた。

駅を降りたら、少し駆け足でアパートへ向かった。今日もあの子たちはいるだろうか? きっと来ているはずだ。牛乳に慣れてきたら、今度はドッグフードかな。彼女は心を躍らせながらそう思った。

いつもの場所に来た。いた。子犬らしい影が見える。

瑞稀の姿を見るなり、尻尾を振りながら「わん!」と吠えた。瑞稀はしゃがみ込んで話しかけた。

「待ってたんだね、えらかったね」

そう声をかけると、くるっとひと回りして、また「わん!」と吠え、舌なめずりをしてみせる。少しずつ元気になって、出会った頃とはまるで別の犬みたいだった。

「牛乳入れてくるからね」

瑞稀が立ち上がると、犬は駆け回りながら高い声で何度か吠えた。少し様子が変だった。

「どうしたの?」

犬は瑞稀に背をむけて、遠くの方へ向けて吠え続けた。するとどこからともなく、黒い犬が姿を現した。昨日見た犬だろうか? だが、1匹ではなく複数匹だった。いやに大きい個体もいる。

ぞろぞろと歩いてくる犬たち。子犬も含めて6匹だ。彼らの狙いは瑞稀にもすぐに分かるほど明確だった。——食糧だ。

震える手で抱えていた牛乳が、するりと抜け落ち、地面に叩きつけられる。紙パックが弾けて液体が流出した。

犬たちは一挙に瑞稀の足元に駆け寄り、じゅるじゅると汚らしい音を立てて牛乳を喉にかき込んでいく。瑞稀は身の危険を感じてその場から逃げ出した。






部屋に戻り、瑞稀は自分自身が招いた事態を嘆き、両手で頭を押さえつけながら目を潤ませた。

——こんなはずじゃなかったのに。

最初は1匹だった。彼女はそれを助けたい一心で食事を与えた。すると翌日には2匹になっていた。それだけしかいないのだと思っていた。6匹になるなんて、思いもしなかったのだ。

——もしかして、わたしが最初の子に優しくしたから?

彼女はあらぬことを考えてしまった。最初の1匹が元凶なのだとしたら、その1匹を突き放せば全てが解決するのではないか。そしてそれと同時に、黒い犬たちとの関係も断ち切れる。つまり、最初の1匹を——

「だめ! それだけはやっちゃだめ!」

脳裏を掠めた凶器のイメージは、叫び声とともに雲散霧消していった。

そしてその瞬間、彼女は対処の方法を決めた。

——もうあの犬たちの相手はしない。呼び止められても決して反応しない。ご飯も与えない。

彼女の頬を涙がつたった。それは彼女にとって、辛い決断だったからだ。





長い夜が明けた。

身支度を終えた瑞稀は、もう悲しんではいなかった。むしろ、今日からまた新しい一日が始まるのだ、という清々しい気持ちを胸にしていた。

——もう大丈夫。

オートロックの入り口を開けて外に出る。

その時、瑞稀は奇妙な呼び声めいたものを聞いた。

——反応しないで。

そう自分に言い聞かせた時だった。彼女の目に、おぞましい光景が飛び込んできたのだった。

昨日牛乳パックを落としたところに、無数の黒い犬が群がって、鼻息荒く、じゃっじゃっ、と音をたて砂を舐めていたのだ。

その傍に、例の子犬がいた。毛並みの良くない身体で駆け回って、「わん!」と吠えた。

すると砂を舐めていた黒い犬たちは、一斉に瑞稀の方を見た。

瑞稀は、明らかに危険であることに勘付いていた。犬たちが求めているのは、餌だ。

——わたしから、餌を奪う気だ!

彼女は急いでアパートの方に駆け戻ろうとした。しかしローファーを履いた両足よりも、犬たちの飢えた欲望で動く脚の方がまさった。

黒い大型の犬が瑞稀の胴体に飛びついた。瑞稀は横転した。遠くへ飛ばされた鞄を数匹の犬が嗅ぐが、餌がないと悟ったのだろう、すぐに瑞稀に欲動の矛先を向けた。

瑞稀は大型犬に馬乗りになられて、動くことができない。その手下とおぼしき犬が、瑞稀の足もとをくんくん嗅ぐ。その素肌をぺろりと舐めると、牙を剥き出し、腱に突き立てた。瞬時に、焼いた鉄串が当たったような痛覚が走る。

「あぐっ」

突き立てるだけでは肉に牙が刺さらない。牙を突き立てたまま首を振り、めりめりと食い込ませる。赤い血がとろりと溢れ出す。

もう片方も、別の犬が同じようにして牙で挟む。太い動脈に当たったのか、血が噴き出す。

押し寄せる激痛に気絶しそうになりながらも、瑞稀は歯を食いしばって逃げる方法を考えていた。しかし否応なく妙な熱が彼女の頭を支配して、思考を拒絶する。

両脚を完全に固定すると、2匹の犬は牙で腱を挟んだまま、彼女を引きずり回した。引きずられた部分には赤いレーンができた。





瑞稀は、動かなくなった体で、虚空を仰いでいた。意識もぼんやりとしてきた。

どうやら路地裏に連れ込まれ、その一角にいるようだ。誰かが助けに来る気配はない。

「ぐぅぅぅ…ううっ」

犬たちは無駄に吠えることなく、犬歯と舌を駆使しながら、裂け目のある腱のあたりから、器用に皮膚を剥がしていた。真っ赤になった脚は筋肉がむき出しになっており、バーナーで炙られるような強烈な痛みを発する。

身につけていた服も、全て取り払われたようだった。足の次は臀部に牙を突き立て、臍のあたりから、蜜柑の皮でも剥くかのように、表皮を剥がし、皮下脂肪を削ぎ取っていく。食糧は少しずつ食べなければ、とでもいうように、少しずつ作業が進行していく。

——わたしから餌を奪うつもりはなかったのだ。わたしを餌にする気だったんだ……。

みじろぎひとつできない体。だが、痛覚だけは彼女に「まだ生きている」という事実を鋭敏に知らしめた。

ふと、最初に出会った犬が彼女の顔を覗き込んだ。嬉しそうに「わん!」と吠えると、額をぺろぺろ舐め出した。だがそれは彼女にとって何らの慰みにもならなかった。

かと思うと、子犬は瑞稀の左目に口をつけた。何度かぺろぺろと舐める。しかし瞼は閉じたままだ。犬は瞼の端を自らの歯でつまむと、ぐっと力を込めて引っ張った。小さな力だったが、瞼を千切るにはじゅうぶんなものだった。

目玉がむき出しになる。犬はそれもぺろぺろと舐める。目を幾千の針で突いたような痛みが走り、叫んでしまいたかった。だが、叫べば叫ぶだけ、呼吸器が身体を動かし、身体全体の痛みが増すだけだった。

「ううぅ……」

子犬は何度か目玉を舐めた後、眼窩に口を突っ込んだ。両顎をうまく使って目玉だけを抜いて、視神経をぷつっとちぎり取った。

血走った眼球は、もうなにも映さないはずだった。だが、その眼球には、空間の片隅にあるものが明確にうつった。


綺麗に白骨化した人間の亡骸が、うずたかく積み上げられていたのだ。

loading

この作品はいかがでしたか?

120

loading
チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚