「へぇ……。やるじゃない、三男」と百合さんが言った。
「だから言ったでしょう? 和泉社長の掌で転がるだけの玉じゃないって」と、私は得意気に言った。
「嬉しそうな顔しちゃって」
「俺たちが聞いてること、蒼は知ってるのかよ?」と侑がため息交じりで聞いた。
「知らないに決まってるでしょ?」と私は当然のごとく、笑って見せた。
蒼が取締役会議で奮闘している間、私と百合さんと侑は極秘戦略課のオフィスで会議の様子を聞いていた。正確には盗聴。
蒼の提案により、和泉社長の解任は保留となった。真がこの件に深く関わることについては、真の経歴や能力を調査の上で代表取締役五名の判断に委ねられることになった。蒼のフィナンシャル異動は、会長が決定権を預かった。
「けど、真くんを巻き込むのは想定外だったわね」
百合さんが椅子に背を預け、腕を組んだ。
「咲の手駒が減るのは痛いわね」
「真が謹慎中の和泉社長と接触できる立場にいれば、こちらも状況を把握しやすいし、好都合ですよ」
「そうね……。こうなると和泉のネットワークは監視されるだろうしね」
「今更だけど……。真さんの意志はないのかよ?」
侑が呆れ顔で言った。
「ない!」
私と百合さんが声を揃えて言った。
「まぁ……、そうだよな。で? これからどうなる?」
「まず、和泉社長は即時謹慎、監視下に入る。蒼と真は早くても来週からフィナンシャルに入る。百合さんと侑は充副社長が会議で提示したUSBメモリのデータの入手と、精査、川原の所在の特定」
私は当面の状況を確認した。
「和泉のネットワークの調査で、私が関わっていることがすぐに露呈するから、私が動ける時間には制限があるわ」
百合さんの言葉に、侑が唾を飲む音が聞こえた。
「百合さんはUSB、侑は川原」と、私が言った。
「だな。咲は?」
「私はこの事件の本当の黒幕を暴く」
その日の夜、私は食事の支度をして蒼が来るのを待っていた。
会議の後、蒼は庶務課には戻ってこなかった。定時少し前、真も呼び出されて席を離れたまま戻らなかった。
午後十一時。
ようやくインターフォンが鳴った。
「お疲れさま」
玄関のドアを開けると、蒼が疲れた顔で立っていた。
「連絡、しなかったな」と言いながら、蒼は腕時計に目を向けた。
「入って」
蒼の腕を引いて部屋に招き入れると、私は背伸びをして彼の首に腕を回した。
「ホント、疲れた――」
蒼の腕が私の腰をきつく締め付けた。
「もう、知ってるのか?」
耳元で囁かれ、心臓が高鳴った。
疲れているせいか、蒼の声はいつもより低く、甘い。
「ん……」
「そうか……」
「お腹空いてない?」
私は腕を解いて、蒼の顔を見た。
「すげー、腹減った……」
「すぐに温めるね」
「咲は?」
「食べたよ」
蒼は少し驚いたように私を見た。
「何? 待っててほしかった?」
「いや……。前にもこんな会話したよな」と、蒼が笑った。
「したね」
「今は火、かけてる?」
蒼がもう一度私の腰に腕を回して、キスをした。
「かけてないけど……」
蒼の唇が私の下唇を軽く噛む。
私に口を開かせたい時の、蒼のサイン。
私はこのサインが好きだ。
蒼に求められていると思うと、嬉しい。
けれど、すぐにそんなことを考えている余裕もなくなるほどの、熱くて激しいキスに、私は息をするのがやっとになる。
「ベッド行っていい?」
私の反応を楽しむように、蒼が耳元で甘く囁く。
「疲れてるんでしょう?」
流されそうになる身体に言い聞かせるように、私は蒼の身体をグイっと押しのけた。
「話がっ……あるでしょ」
「話していいよ?」
蒼の手が私の服の裾を弄る。
「ちょ……」
「ちゃんと聞いてるから」
蒼の舌が、私の首筋をなぞる。
「ん――!」
「ほら、話は?」
蒼の指が、私の胸の膨らみを這う。
「蒼!」
私は力いっぱい蒼を押し退けた。
「話があるのは蒼でしょ」
蒼はふてくされたように口をとがらせた。
蒼の、こんな子供みたいな顔を知っているのが、私だけならいいと思った。
「咲?」
蒼が、こんな子供みたいな顔を見せるのが、私だけならいいと思った。
「蒼……、私――」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
今はまだ、言えない――。
私はカレーを温め直して、サラダと一緒にテーブルに並べた。
待っている間に、蒼は缶ビールを一本空けて、二本目の栓を開けていた。
「来週からフィナンシャルに行く」と言って、蒼はカレーにスプーンを入れた。
「うん……」
私は頷いた。
「真さんも一緒に」
「うん……」
私はもう一度頷いた。
「なぁ……」
「ん……?」
「どうして会議の内容を知っているか、聞いたら教えてくれるか?」
「盗聴」
私が即答したことがよっぽど意外だったようで、蒼はカレーを吹き出しかけた。
「大丈夫?」
咳込む蒼にティッシュを渡して、私はミネラルウォーターを取りに冷蔵庫に走った。
ペットボトルのキャップを外して差し出すと、蒼は一気に半分ほどを喉に流し込んだ。
「大丈夫?」
「ああ……」と、蒼はティッシュで口を拭きながら言う。
「すんなり教えてもらえると思わなかったから、びっくりした」
「そ? ちなみに、百合さんと侑も一緒に聞いてたよ。音声だけだから、モニターの映像は見てないけど、大体の察しはついてる」
私は、もう一度キッチンに行って、ロックグラスを二つ並べた。
「お前のシナリオ通りか?」
「八割はね」と言いながら、グラスに氷を入れる。
「二割はどの部分?」
「カレー、お代わりは?」
「いや、ご馳走さま」
「ウォッカとテキーラ、どっちがいい?」
私は棚からコーヒーリキュールの瓶を出した。
「ウォッカ……かな」
「蒼が真を連れて行くと思ってなかった」
ウォッカの瓶も手に取る。
グラスにコーヒーリキュールを三分の一ずつ注ぐ。
「やっぱり、そこか」
一つにウォッカ、一つにミルクを三分の二ずつ注いで、軽くステアした。
「真は何て?」
グラスを蒼に手渡す。
「……」
「蒼?」
「これは?」と、蒼はグラスを見つめて聞いた。
「ブラックルシアン。嫌いだった?」
「いや……」
私はカレーの食器を片付けた。
「この前会った時、充兄さんも同じものを作ってくれた」
蒼はグラスに口をつけた。
「もっとキツかったけど」
「そう……」
「真さんは最後まで付き合うって言ってくれたよ」
「そっか」
私は蒼の隣に座り、カルーアミルクを一口飲んだ。
蒼が私の肩に腕を回す。
「ショックだった?」
「それなりには」と言った蒼が、ふっと笑みをこぼした。
「でも、会議の間、咲のことばっか考えてたな」
「なんで?」
「なんでかな……」
蒼が私に唇を重ねた。
「この件が片付いたら、一緒に暮らさないか?」
蒼……。
柔らかい、さらさらの前髪から覗かせた蒼の目が真剣で、なのに耳まで真っ赤にして、緊張が伝わる。
蒼に、結婚願望があるかと聞かれた時も、指輪をもらった時も、私は返事をかわした。ううん。暗に、私たち二人に未来はないと伝えた。
蒼を失うなんて考えられないのに、自分の気持ちに蓋をして、私は自分が犯罪者であることを理由に、蒼の気持ちを拒んだ。
自分には、蒼の隣に立つ資格がないと――。
「今すぐ返事は必要ないよ」
私の気持ちを見透かすように、蒼が言った。
「この件が片付いた時、俺にもう一度同じことを言える強さがあったら、返事をくれな」
私は蒼の首に腕を伸ばして、キスをした。
蒼の、最期の女になりたい。
蒼がそうするように、彼の下唇を甘噛みする。
蒼が、最期の男であってほしい。
私のミルクの香りが、ウォッカの味にかき消されるまで、時間はかからなかった。
*****
翌日、全社員に蒼と真の異動の通達があった。総務部の課長が不在になるという異例の事態に、社内が騒然となった。
憶測が憶測を呼び、蒼と真が清水の事件に関わっていたのではないかとか、真は実は会長の隠し子で、後継者問題で二人を本社から遠ざけるためではないか、とまで噂された。
蒼と真は四日で引継ぎを終えなければならなくなり、朝から走り回っていた。
詩織ちゃんは蒼の異動に涙ぐんでいたが、すぐに送別会のセッティングを始めた。私の知らないところで何度も蒼に誘いを断られていたらしく、送別会で一気に距離を縮めようと考えたようだ。
私は昼休みの社内配達を利用して、会長室を訪ねた。
「このタイミングで君が訪ねて来てくれるとはね」と会長はやつれた顔で笑った。
「お食事、なさってますか?」
「充の話を聞いてから、食欲がなくてね」
「この状況で会長が倒れることにでもなったら、それこそ大混乱ですよ?」
私は会長に促され、ソファに腰を下ろした。会長は角向かいの上座ではなく、私の向かいに座った。
「吉報だと嬉しいんだが?」
「吉報ですよ? 蒼さんが動き出しましたから」
「どうだい? 蒼は」
「庶務課にはもったいない人材で、私にはもったいない男性です」
私の言葉に、会長は嬉しそうに微笑んだ。
「そうか……。三人で食事できれば、食欲も出そうなんだが?」
「今はタイミングが良くないですね」
「確かにそうだな。それで、今日の要件は?」と言って、会長は腕を組む。
「会長、藤川真についてご存知のことは他言していませんよね?」
「していないよ。君との約束だからね」
「ありがとうございます。では、今回の事件の調査について、藤川真に全権限を与えてください」
会長が口を開くまで、ほんの少し間があった。
「蒼も承知かい?」
「いえ?」
「なら、蒼と君はよほど気が合うのだろうね。昨日、蒼からも同じことを頼まれたよ。責任は自分が負うから、藤川君に全て任せて欲しいと」
蒼が……?
「藤川君については君から報告を受けていたからね、蒼の申し出を了承したよ」
「ありがとうございます」
言葉にしなくても、蒼が私を理解してくれているようで、嬉しくなった。
「他には?」
「この件を収束させられたら、会長の後継者や重役の人事、私自身の身の振り方について、私に一任していただけませんか?」
これには、会長も口を閉ざした。
「もちろん、私情は挟みませんし、会長だけでなく取締役の方々が納得できる理由を提示します」
「時間をくれないかな?」
当然の反応だな。
「もちろんです。私の仕事ぶりを見て、判断なさってください」
「他には?」
「私の――」
会長は私の要望を聞き入れてくれた。
「ありがとう、おじさま」
私は頭を下げて、会長室を出た。
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