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失恋マンション

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失恋マンション

1 - 第1話 鍵を受け取る夜

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2025年07月02日

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第1話|鍵を受け取る夜
「お嬢ちゃん、ほんとうにここに住むのかい?」


差し出された銀色の鍵は、少し黒ずんでいて、冷たかった。錆びた番号札には「401」とだけ書かれている。手の中で転がすと、かすかに金属の音がした。


目の前の老婆は、マンションの管理人だという。腰が曲がっているのに、背筋はやたらとしゃんとしていて、どこか舞台俳優のようだった。


「はい……。あの、ネットで見たんです。“失恋した人だけが住める”って……」


自分でも信じがたい言葉を、唇が勝手にこぼしていく。


まさか、本当にこんな物件があるなんて。だけど、駅から徒歩7分、オートロックあり、家賃も手頃。そして何より、その妙な条件だけが、今の自分を許してくれるような気がした。


「ふうん」


老婆は目を細めて私をじっと見た。


「じゃあ、聞こう。何に負けた?」


私は答えらなかった。言葉にならなかった。喉が、記憶の棘で塞がっていた。


結婚式の直前、婚約者が突然姿を消した。連絡はなく、LINEのアイコンはそのままで、“未読”の文字だけが日々の傷口を広げていった。式場のキャンセル料、両親の気まずさ、友人たちの哀れみの視線。


「……婚約者に、捨てられました」


その瞬間、鍵が手の中で、ふっと温かくなった。


老婆はふっと笑った。


「ようこそ、失恋マンションへ」


その声は、魔法の呪文のようだった。





401号室のドアは重たく、開けるたびにどこかの記憶が軋むようだった。


部屋は意外と綺麗だった。白い壁、木の床、ちいさなキッチン、窓の外に光る遠くのネオン。東京の夜が、サイダーの泡のように瞬いていた。


荷物を置いて、ベッドに腰を下ろす。静かすぎる部屋に、自分の心臓の音だけがやけに響いてくる。


「……ほんとに、来ちゃったんだな」


その時、かすかに聞こえた。


——ギターの音。


音に誘われて窓を開けると、近くの小さな公園が見えた。


街灯に照らされたベンチに、ひとりの男が座っていた。


黒いギターケースが足元にあり、その姿は孤独で、でもどこか救いを求めているように見えた。


気づけば私は靴を履いていた。


ドアを閉め、鍵をポケットに入れる。


暗い道を、音に導かれるように歩いた。





公園はひっそりとしていた。


ベンチの端に座る青年は、細い指で弦を爪弾き続けていた。


近づくと、メロディがはっきりと胸に沁みる。


寂しさを隠さない音だった。


でもどこか、手を伸ばせば救われそうなあたたかさもあった。


「……きれいな曲ですね」


思わず声が出た。


青年はゆっくり顔を上げた。


黒髪が額にかかり、眠たそうな目が私を映す。


「ここ、よく来るんですか?」


問いかけると、青年は少しだけ口の端を動かした。


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