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第1話|鍵を受け取る夜
「お嬢ちゃん、ほんとうにここに住むのかい?」
差し出された銀色の鍵は、少し黒ずんでいて、冷たかった。錆びた番号札には「401」とだけ書かれている。手の中で転がすと、かすかに金属の音がした。
目の前の老婆は、マンションの管理人だという。腰が曲がっているのに、背筋はやたらとしゃんとしていて、どこか舞台俳優のようだった。
「はい……。あの、ネットで見たんです。“失恋した人だけが住める”って……」
自分でも信じがたい言葉を、唇が勝手にこぼしていく。
まさか、本当にこんな物件があるなんて。だけど、駅から徒歩7分、オートロックあり、家賃も手頃。そして何より、その妙な条件だけが、今の自分を許してくれるような気がした。
「ふうん」
老婆は目を細めて私をじっと見た。
「じゃあ、聞こう。何に負けた?」
私は答えらなかった。言葉にならなかった。喉が、記憶の棘で塞がっていた。
結婚式の直前、婚約者が突然姿を消した。連絡はなく、LINEのアイコンはそのままで、“未読”の文字だけが日々の傷口を広げていった。式場のキャンセル料、両親の気まずさ、友人たちの哀れみの視線。
「……婚約者に、捨てられました」
その瞬間、鍵が手の中で、ふっと温かくなった。
老婆はふっと笑った。
「ようこそ、失恋マンションへ」
その声は、魔法の呪文のようだった。
401号室のドアは重たく、開けるたびにどこかの記憶が軋むようだった。
部屋は意外と綺麗だった。白い壁、木の床、ちいさなキッチン、窓の外に光る遠くのネオン。東京の夜が、サイダーの泡のように瞬いていた。
荷物を置いて、ベッドに腰を下ろす。静かすぎる部屋に、自分の心臓の音だけがやけに響いてくる。
「……ほんとに、来ちゃったんだな」
その時、かすかに聞こえた。
——ギターの音。
音に誘われて窓を開けると、近くの小さな公園が見えた。
街灯に照らされたベンチに、ひとりの男が座っていた。
黒いギターケースが足元にあり、その姿は孤独で、でもどこか救いを求めているように見えた。
気づけば私は靴を履いていた。
ドアを閉め、鍵をポケットに入れる。
暗い道を、音に導かれるように歩いた。
公園はひっそりとしていた。
ベンチの端に座る青年は、細い指で弦を爪弾き続けていた。
近づくと、メロディがはっきりと胸に沁みる。
寂しさを隠さない音だった。
でもどこか、手を伸ばせば救われそうなあたたかさもあった。
「……きれいな曲ですね」
思わず声が出た。
青年はゆっくり顔を上げた。
黒髪が額にかかり、眠たそうな目が私を映す。
「ここ、よく来るんですか?」
問いかけると、青年は少しだけ口の端を動かした。