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春の風は、あまりにも穏やかすぎて、悠翔にはそれが不気味に感じられた。大学の門をくぐったその日、教室の空気は澄んでいた。誰も彼を知る者はいない。けれど、それが自由ではなく、ただの空白のように思えて仕方がなかった。
大学の講義室の椅子に座っているときでさえ、悠翔は背筋を伸ばしすぎていた。周囲の学生が深く椅子に沈み、手持ち無沙汰にスマホを弄る間、彼の指先はノートの端をかすかに掴み、わずかに震えていた。
「怖がってるわけじゃない。そうじゃないんだ」
そう何度も、自分に言い聞かせた。
けれど、ふとした笑い声や、誰かが背後を通る足音、男同士のじゃれ合い──それらが背後から胸元を貫くように響く。無意識に呼吸が乱れ、ノートの文字が霞むとき、過去の音が甦る。
「声、出すなよ」
「ほら、慣れてきただろ?」
「動くな、見えねぇだろ。笑えよ」
──白い教室の片隅。床の冷たさ。ベルトの音。視線。
過去は、皮膚の下で息をしている。
大学での生活は、表面的には平穏に見えた。
決まったグループに属することはなく、授業には欠かさず出ていた。
食事は学食で済ませるか、夜にコンビニで済ませる。弁当を作る習慣などは最初からなかったし、台所に立つとき、背後に立つ人影の幻を振り払うのがつらかった。
友人と呼べる人は、いなかった。
けれど、声をかけてくれる人は時折いた。
「今度一緒に行かない?」
「その授業ってどんな感じ?」
曖昧に笑い、必要最小限だけ答えて去る。
誰にも嫌われないように、だが、誰にも近づかれないように。
講義中、教授に当てられるのではないかという不安で、手は震えていた。少しでも視線が向けられると、背筋が凍る。何かを間違えたのでは、怒られるのでは、誰かが見ているのでは。ノートを取る手は無意識に小さく、隅へと追いやられていた。
バイトを始めたのは生活のためだった。実家からの支援などない。むしろ、貯めていた金は兄たちに取り上げられるのが常だった。だから今、働いて得た数千円が手元に残ること自体が、信じられない幸運のようだった。洗剤や歯ブラシ、光熱費。レジでひとつひとつ確かめながら買う生活用品は、どれも「自分だけのもの」として、奇妙な温度を持っていた。
「ねえ、今日のレジュメ、コピー取りすぎちゃってさ……いる?」
声をかけてきたのは、同じゼミの男子学生だった。悪意のない、ただの親切。けれど、悠翔の身体は瞬間的にこわばった。なぜ、自分に?
「……大丈夫、です」
言葉は出たが、目を合わせることはできなかった。相手が微かに眉をひそめた気配に、背筋が凍った。
怒った? 迷惑だった? どうして声をかけた? どうして自分は断った? ――脳内で反芻する声が止まらない。
その夜、夢を見た。
兄たちの声。背中を打つ棒の痛み。無言の目配せ。命令を間違えたときの冷たい水。
目が覚めたとき、喉は張り付くように乾いていた。部屋の天井が現実に戻った証だったけれど、鼓動はいつまでも異常な早さのままだった。
グループワークで、3人組を作ってくださいという指示が出たとき、教室の空気が一瞬ざわめいた。
悠翔は動かなかった。誰かと組もうとは思わなかった。誰かと関わると、壊れる。
他の学生が自然に集まる中、ぽつんと残された。教授はちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。
そのとき、別の女子学生が声をかけてきた。
「一緒にやろうか?」
反射的に首を横に振っていた。
彼女の目が、驚きから困惑に変わった。その表情を見た瞬間、体の奥が熱くなった。怒らせた。傷つけた。失望された。
「……ごめん」
小さな声で謝っても、もう遅かった。彼女は、無言で別のペアに入っていった。
自分は何もできない。ただ壊してしまう。そんな自覚だけが心に積もっていく。
バイト先のコンビニで、小さな子どもがジュースをこぼして泣き出した。
母親が慌てて謝る。悠翔は、自然としゃがんで「大丈夫ですよ」と言っていた。
その瞬間、母親の「ありがとう」の声が優しかった。
笑ってしまった。
心からのものではなく、驚きと戸惑いの入り混じった笑み。
その帰り道、自分が誰かの役に立てたこと、自分に「ありがとう」が向けられたこと、それがただの接客であっても――そのことに自己嫌悪と、微かな幸福を同時に感じていた。
こんな自分が笑ってしまうなんて。けれど、それでも。
普通のことが、こんなにも温かい。
一人暮らしの部屋は、無音だった。
カーテンは常に閉じていた。光を入れると、影が濃くなる気がしたからだ。
ベッドに横たわる夜、眠る前にいつも心臓の音を数えていた。
昔は数えていれば、痛みが終わる時間が分かる気がしていた。
それでも、何かが違っていた。
夜に誰かの物音を恐れなくてもいい。
目覚ましの音で目を覚まし、自分の時間を自分で選べる。
──それだけで、たしかに“自由”だった。