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第八章 闇が還る月夜
第十三話 闇が還る場所 後編
夜が静まり返っていく。
ついさっきまで帝都を埋め尽くしていた咆哮が、少しずつ、少しずつ遠ざかっていった。
騎士達は呆然としていた。
目の前で起きていることが理解できない。
魔物達が崩れていく。
倒されたからじゃない。
黒い瘴気が、自らジオへ還っていくことで。
その魔物としての形を、静かに失っていく。
苦しげな咆哮。
けれどそれはどこか、安堵にも聞こえた。
「……あり得ない」
年老いた騎士が、震える声を漏らす。
「こんなこと……」
ジオは目を閉じたまま、その場へ立っていた。
周囲を流れる無数の瘴気。
普通の人間なら、一瞬で呑み込まれる量。
けれど今のジオは違った。
怖くない。
苦しくない。
むしろ胸の奥へ、静かな温もりが広がっていく。
ーーやっと還れた。
そんな感覚が流れ込んでくる。
長い孤独の果て。
ようやく眠りにつけるような、静かな安堵。
ジオの瞼が小さく震える。
脳裏へ、再び少女の微笑みが浮かんだ。
――大丈夫。
あの時の感覚が、まだ胸の奥へ残っている。
サフィアンは少し離れた場所で、そんなジオを見つめていた。
言葉が出ない。
月光の中へ立つその姿は、あまりにも綺麗だった。
白いローブ。
揺れる黒髪。
無数の瘴気を纏いながら、静かに立つ横顔。
その姿は、人間離れしていて。
だけどちゃんと、ジオだった。
「……ジオ」
思わず掠れた声で呼ぶ。
すると、ジオがゆっくり目を開けた。
黒い瞳が、まっすぐサフィアンを見る。
その瞬間。
サフィアンの胸へ、強く安堵が広がった。
ちゃんといる。
消えてない。
置いていかれてない。
ジオは小さく笑った。
その笑顔は、いつもと変わらない。
それにどこかいつもより穏やかだった。
その時、遠方から激しい馬蹄の音が響く。
騎士達が振り返る。
夜風を裂きながら、二頭の軍馬が駆けてくる。
アクセルとクロードだった。
二人は馬を止め、ジオを見る。
そして言葉を失った。
戦場一帯の瘴気が、明らかに薄くなっている。
魔物達も次々と形を失っていく。
あり得ない光景。
クロードの銀の瞳が、小さく揺れる。
脳裏へ浮かぶのは、リュカだった。
もし。
もしあの時。
こんな力を持つ存在がいたなら。
あいつも救えたのだろうか。
その考えが胸を深く締め付ける。
けれど同時に、初めて希望のようなものが心の奥へ灯った。
アクセルはゆっくり馬から降りる。
黄金の瞳は、真っ直ぐジオを見つめていた。
驚愕。
安堵。
そして、確信。
目の前の存在は、厄災なんかじゃない。
世界を壊す者じゃない。
――救える者だ。
その時、満月を覆うように薄い雲が流れ始めた。
強すぎた月光が少しだけ和らぐ。
夜風が静かに帝都を吹き抜ける。
長い夜がようやく、終わりへ向かい始めていた。
夜明け前の風は、ひどく静かだった。
さっきまで帝都を覆っていた、あの息苦しいほどの瘴気が、嘘みたいに薄れている。
騎士達は、まだ剣を握ったまま立ち尽くしていた。
誰も、何を言えばいいのか分からない。
目の前で起きたことは、常識を完全に超えていた。
アクセルはゆっくり、ジオへ歩み寄る。
黄金の瞳が、真っ直ぐその姿を見つめていた。
白いローブ。
月光を纏う黒髪。
そしてその周囲で、まだ静かに揺れている黒い瘴気。
けれど不思議と恐怖は感じなかった。
むしろあまりにも静かで、あまりにも穏やかだった。
「……ジオ」
アクセルが低く呼ぶ。
ジオはゆっくり顔を上げた。
その瞬間、ふらりと身体が揺れる。
「っ、ジオ!」
サフィアンが駆け寄った。
崩れ落ちそうになった身体を、咄嗟に抱き留める。
ジオは目を瞬かせたあと、小さく苦笑した。
「……ちょっと、頑張りすぎたかも」
「アホ!!」
サフィアンの声が裏返る。
「どんだけ心配したと思ってるんだよ!!」
青い瞳から、今にも涙が溢れそうだった。
ジオは少し困ったように笑う。
「ごめん」
その声は、ちゃんといつものジオだった。
サフィアンは唇を噛み締める。
胸の奥に残っていた恐怖が、少しずつ溶けていく。
よかった。
ちゃんと、戻ってきた。
ラスタも大きく息を吐いた。
「ほんま……寿命縮むわ……」
力が抜けたように、その場へ座り込む。
アクセルはそんな三人を見て、小さく目を細めた。
そして静かに口を開く。
「……お前が、帝都を救ってくれた」
その言葉に、周囲の騎士達が一斉に息を呑む。
ジオは驚いたように目を見開いた。
「ち、違……」
「オレはただ……」
言葉に詰まる。
自分は、そんな大層なことをしたつもりじゃない。
ただ。
苦しそうだったから、帰る場所を探していたから、できることをしただけだ。
けれどアクセルは静かに首を横へ振る。
「それでもだ」
真っ直ぐな声だった。
「お前がいなければ、今夜の帝都は持たなかった」
その言葉は、重かった。
騎士達も否定できない。
皆、見てしまったから。
この青年が、闇を受け止め、魔物達を静めていく姿を。
その時、クロードがゆっくりジオへ近付いた。
銀の瞳は、どこか苦しそうだった。
長い沈黙。
やがて、静かな声が落ちる。
「……もし」
ジオが顔を上げる。
クロードは少しだけ目を伏せた。
「もし、お前のような者が昔から存在していたなら」
「救えた命も、あったのかもしれない」
その声は、あまりにも静かだった。
けれど、その胸にある想いは、痛いほど伝わった。
救えなかった、もう戻らないものへの、長年積み重なった想い。
ジオの黒い瞳が、小さく揺れる。
何も言えない。
軽々しく、救えたなんて言えなかった。
するとクロードはふっと小さく笑った。
ほんの少しだけ。
今までより柔らかい表情だった。
「……いや」
「すまない。困らせることを言った」
そう言って、静かに夜空を見上げる。
満月は、薄い雲の向こうへ隠れ始めていた。
夜が終わる。
長かった満月の夜が。
そして闇はようやく、還る場所を見つけた。
コメント
1件
読了しました。後編、とても沁みました……。 「やっと還れた」というジオの安堵感が、読んでいるこちらにも静かに広がってきて、胸の奥がじんわり温かくなりました。特にクロードが「もしお前のような者がいたなら」と漏らす場面、あれまで抱えてきた後悔が見えて、苦しくて、でもほんの少し救われたような気持ちになりました。サフィアンが涙目で「アホ!!」と叫ぶところも、ずっと張り詰めていた糸が解けるようで、一緒に泣きそうになりました。 本当に美しい終わり方でした。素敵な物語をありがとうございます。