ある日の夜。
そろそろ子供は寝る時間という頃に、ポツポツと雨が降り出した。 雨粒は次第に大きくなり、木々や地面を打ちつける音が部屋の中にまで聞こえてくる。
「結構降ってるみたいね……」
エステルが雨の様子を見ようと居間のカーテン開けたとき、外がピカッと白く光った。 すぐあとに、ドォンと雷が落ちる音が聞こえる。
「今の音の感じだと、わりと近くに落ちたみたいね」
エステルが振り返って、ソファに座っていたミラに話しかける。 しかし、その小さな肩がぶるぶると震えていることに気がついた。
(そっか、まだ子供だものね。雷が怖いのかも……)
すぐにカーテンを閉め、ミラの肩を抱くようにして隣に座る。
「ミラ、雷が怖いの?」
「……うん」
「大きい音がするものね」
「うん、それに……」
「それに?」
「こうやってピカって光って音が鳴ると、悪いことが起こるんだ」
「悪いこと……?」
悪いことというのが何なのかは分からなかったが、ミラが雷をひどく恐れていることは伝わってきた。 目にはうっすらと涙の膜が張り、今にも泣き出しそうだ。
エステルはミラの頭に頬を添え、頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「大丈夫よ、ミラ。わたしが隣にいるし、アルファルド様だって……」
一緒だから、と言おうとしたエステルが言葉に詰まる。 向かいのソファに座っていたアルファルドも、あまり顔色が良くないことに気づいてしまったからだった。
(ミラもアルファルド様も、雷に何か嫌な思い出でもあるのかしら……)
エステルが顔を上げて、ミラとアルファルドに呼びかける。
「二人とも、今夜は雷が収まるまで三人で一緒にいましょうか」
◇◇◇
「はい、ホットミルクをどうぞ」
エステルが台所で作ってきたホットミルクをミラとアルファルドに差し出す。 少しでも心がほぐれたらと思い、ちょっとだけ砂糖を混ぜて甘めの味付けにしている。
「まだ熱いから気をつけてね」
「うん、ありがとう」
「……すまない」
ミラが両手でマグカップを持って温まりながら、湯気の立つホットミルクにふぅふぅと息を吹きかけて冷ます。 アルファルドはひと口飲んだあと、ほっとしたように息を吐いた。
外ではまだゴロゴロと雷鳴が響いていて、時折どこかに雷が落ちるたびに、ミラがびくりと肩を揺らしていた。
「ミラ、何かお話をしてあげましょうか?」
どうにか気を紛らわせてあげたくてエステルが提案すると、ミラが嬉しそうに返事した。
「本当? 何のお話でもいい?」
「もちろん。なんでもいいわよ」
「それじゃあ……冬の国の王子様と春の国のお姫様のお話がいいな。アルファルドもそれでいい?」
「私はなんでも構わない」
「よかった! 王子様がかっこいいお話なんだよ」
『冬の国の王子と春の国の姫君』は、最近読んでミラのお気に入りになった絵本だった。 物語の内容も面白くて好きらしいが、挿絵に描かれているお姫様がエステルに似ているから気に入ったのだそうだ。
今日も朝食を食べたあとに読んでいたので、ちょうど居間に置いてある。 エステルは絵本を手に取ってページをめくった。
「むかしむかし……」
「あっ、待って!」
エステルが絵本を読み始めようとすると、ミラが待ったをかけた。
「せっかくアルファルドも一緒だから、魔法の劇にしてほしいな」
「魔法の劇?」
「うん。ねえ、お願い、アルファルド」
どういうことか分からず首を傾げるエステルの向かいで、アルファルドがマグカップをテーブルに置く。
「……仕方ないな」
「ありがとう、アルファルド! お姫様と王子様はこの絵の人たちだよ」
「分かった」
「エステル、急にごめんね。もう読んで大丈夫だよ」
「え、ええ」
何がなんだか理解できないが、とりあえず絵本を読み始める。
「むかしむかし、常春の国のお城に愛らしい女の子が生まれました。ロザリーと名づけられた赤ちゃんは、すくすくと育ち、十七歳の誕生日を迎える頃には、それは美しいお姫様へと成長しました。かがやく亜麻色の髪に、透き通るような若葉色の瞳。小さな唇はまるで薔薇の蕾のように愛らしく、国の皆から愛されて幸せに暮らしていました──」
ロザリー姫の場面を読んでいると、ミラがアルファルドに何やら小声で合図を出した。
アルファルドが軽くうなずき、すっと人差し指を伸ばす。 すると、指先から光の糸のようなものが伸びてきて、テーブルの上で何かの形を編み始めた。
「これは……お姫様!?」
エステルが驚きの声を漏らす。
テーブルの上に現れたのは、今エステルが語っていたロザリー姫の姿だった。 手のひらに載るくらいの大きさで、とても可愛らしい。
「魔法って、こんなこともできるんですね!」
「……ああ。おとぎ話の劇に使うのは初めてだが」
その後もアルファルドは、エステルの語りに合わせて魔法で舞台や登場人物を作ってくれた。
ちなみに、王子様はミラの希望で原作とは違い、ミラそっくりの見た目に変えられた。
つまりは、アルファルドとそっくりということでもある。
自分とアルファルドに似た人形たちが互いに惹かれ合う様子を見るのは、なんとなく気恥ずかしい。
それでもクライマックスの王子様がお姫様を助けるシーンは大迫力で、エステルはいつのまにか恥ずかしがっていたのも忘れて劇に見入ってしまった。
「はぁ……こんなに感動するとは思いませんでした」
エステルが読み終えた絵本を閉じながら、目尻に浮かんだ涙を拭く。
ミラも目をこすっていたが、あくびもしているから、たぶん眠くなってきたのだろう。
いつのまにか雷は止んだようだし、きっともう安心して眠れるはずだ。
「もうお部屋で寝られそう?」
「うん、大丈夫……」
「ちゃんと歯みがきして寝るのよ」
「うん……」
早く寝たいらしく、ミラが洗面所へとてとてと走っていった。
「アルファルド様も眠れそうですか?」
「……ああ、今は落ち着いた気分だ」
「それならよかったです」
ホットミルクと読み聞かせのおかげかしらと微笑んでいると、アルファルドが何かを考えるような表情でエステルを見つめてきた。
「……ミラは君と一緒だと安心するみたいだな」
「まあ、それは嬉し──」
「私もそうなのかもしれない」
「……えっ?」
アルファルドからの思いがけない言葉に、エステルが固まる。 彼を見つめ返したまま何も言えずにいると、アルファルドがソファから立ち上がった。
「私とミラはもう寝る。君も早く休むといい」
遠ざかっていくアルファルドの背中を呆然と見送りながら、エステルがぽつりと呟く。
「──今のって、どういう意味……?」
エステルはソファから立ち上がることもできず、なぜか熱くなる頬を両手で覆うのだった。
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