テラーノベル
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…………………息が、そのたった一言のせいで、仕方を忘れた様に、覚束なくなった。
そのたった一言の熱源で、流した覚えも無いのに、涙は頬を伝った。
……結婚?
…………いま、結婚って、言ったの?
「俺が選んだ人なら、家柄とか、経歴とか、そんな肩書きどうでも良いんだったよね」
そんな赤子のような私に聞かせるように、常葉くんはゆっくりとその人へ伝える。
見てみたいと素直に思った、彼のお父さんは、滲む世界で静かに頷いて満足そうに微笑む。
「良いよ。お前がちゃんと、心に決めた人と一緒になってくれるならそれで良い」
その笑顔と穏やかな声色を聞けば、私の口から遂に嗚咽が漏れるので、急いで口を隠した。
終わりにしようと、
これが最後だと決めていたのに、彼は私の決意を何時だって簡単に覆す。
夢でも見ているのだろうか、だけど、すぐに意識は現実へと舞い戻るので「あの!」と、何とかお腹から声を吐き出した。
「わ、たし、何も……何も、持ってなくて」
声が情けなく震える。涙だって、止まらない。
指先も、酸素が行っていないのか、感覚がおかしい。
「もっと、い、樹さんには相応しい人が居ると思います、私よりももっと素敵で、家柄も……ちゃんとして、立派な人」
「今言ったじゃん、関係ないって」
「か、関係なくない!樹さんはそのうち、この会社を継ぐんですよね?」
「いや、譲らないよ?」
その人も私の考えをすぐに打ち消すので「え?」と口を開けたまま声を出した。
「依愛さん、だったかな」
静かな抑揚が酷く似ているその声に「はい」と頷くと、その人の瞳は微かな力を帯びた。
「君が言いたいことも良く分かるよ。だけど、いくら名家育ちの女性が相手でも、君が負けないものもあるんじゃないのかな」
「……えっと、それは」
「身を引こうとする程、樹の事を大切に想ってくれているんだろう?」
「……はい、もちろん。大好きです、優しくてあたたかくて、私には勿体ない人です」
「それが一番だよ」
ポタ、と、顎を伝った涙が床にひと粒落ちた。
「うぅ、」と、返事すらままならない私の背中を、大きな掌がそっと触れた。
「それなのに自分の事を、何も無いなんて言ってはいけない。君が生まれた家に、君自身に誇りを持ちなさい」
何度も頷き、言葉を噛み締めると同時にポタポタと床に落ちていく。
「……樹と一緒に過ごしてくれて、ありがとう。息子をよろしくお願いします」
「っ、見放されないように、頑張ります〜……」
何とか声を絞り出したのに、常葉くんは「なんだよそれ」と呆れた様に笑う。馬鹿にされてるみたいに感じるのに、それがまた嬉しくて、涙は飽きずに零れた。
私が余りに泣くので、常葉くんのお父さんは落ち着くまで、と、同じ階にある会議室を貸してくれた。
こうなることを見越して、眼鏡の心配をしていたのだろうか。
窓の外の街並みをみつめるその姿の隣に立つ頃には、嗚咽も随分と収束していた。
「ここが、……常葉くんの夢?」
いつか、楽させたいと話していた事を思い出せば、彼は小さく頷いた。
「でもあの人あんな考えだから、意地でも俺には渡さないだろうね」
「それより」と少し毒気を帯びた声に見上げれば、それより先に彼の手が私の顎を持ち上げるので、強引に顔は対面した。
甘い目元の奥に揺らめく瞳は勝ち誇る王者みたいに見下ろすから、私はいつも目が逸らせない。
「……身を、引こうとしてた?」
「そ……れは」
「誰が許したの?」
「……だって、その方が良いって」
「俺言わなかった?逃げんなって」
「そう、だけど」
「もう、俺に言い訳はしないで」
その言葉を合図に綺麗な顔が近寄る。
そのキスを貰い慣れている私は、簡単に彼を受け入れた。
熱が溶け合えば胸に確かに宿る幸福。これは、彼にしか貰えない幸せだ。
角度を変えて何度も啄まれては呼吸も支配されて、再び息が荒れる頃常葉くんは私を解放した。
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#ワンナイトラブ
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