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第6話 手が離れる
介助職員の腕の中で、ハイエナは一度だけ息を止めた。
背へ回された腕。
肘の下を支える手。
体重を預けても揺らがない身体。
歩行訓練で足を滑らせた時と同じだった。
誰であろうと、危険があれば迷わず手を出す。相手を床へ落とさず、自分で立てる状態へ戻るまで支える。
ハイエナが欲しがった男は、何も知らないまま、今もその通りに動いていた。
「お前、利用者に何してる!?」
介助職員の怒声に、事務職員の肩が揺れた。
「違う、これは――」
「違わないだろ。今、叩いたよな」
否定できなかった。
どれだけ怒る理由があっても、手を上げた事実は消えない。
介助職員は返事を待たず、ハイエナの顔を自分の方へ向けた。
「頬、見せろ」
「平気だ」
「お前の平気は当てにしない。耳鳴りは? 気分悪くないか?」
「ねぇよ」
「目眩は」
「ない」
赤くなった頬を確かめる指先は、傷へ直接触れなかった。
ハイエナは珍しく抵抗せず、その確認を受けた。
事務職員は、二人を見ていた。
自分と別れる原因になった手が、自分を壊した男を支えている。
それでも、その手を責めることはできなかった。
倒れかけた利用者を受け止める。
事情が分からなければ、まず状態を確かめる。
介助職員は、何も間違えていない。
「何があった」
ハイエナの身体を支えたまま、介助職員が訊いた。
「俺が悪い。こいつは悪くねぇ」
「それだけじゃ分からないだろ」
「俺がやったことを話した。こいつが怒った。それだけだ」
「それだけで済ませるな」
事務職員は、かすれた声で笑った。
「今まで散々、俺には全部言うみたいな顔してたじゃないか」
介助職員が、二人を見比べた。
「どういう意味だ」
「俺に言うんじゃなくて、彼に言えば?」
ハイエナは黙った。
「言いたかったんだろ。ずっと」
伏せていた耳が、ゆっくり起きる。
ハイエナは自分を支えている男を見た。
「……お前が欲しかった」
介助職員の眉が寄る。
「は?」
「最初から、俺が欲しかったのはお前だ」
背を支える腕から、わずかに力が抜けた。
それでも介助職員は、ハイエナを落とさなかった。
「俺と別れさせたかったんだってさ」
事務職員が言った。
「だから俺を好きなふりして、毎日、事務室へ来た。君の話が俺へ届くようにして、俺が不安になる言葉だけ選んだ」
「……本当なのか」
「ああ」
「お前が、あの人を口説いてたのも?」
「全部ふりだ」
「水域由来の利用者の話を流したのも?」
「嘘は流してねぇ。聞こえてきた事実のうち、効くものだけ使った」
介助職員の顔から、怒りが消えていく。
代わりに浮かんだものを、事務職員は知っていた。
相手を理解しようとしている顔だった。
簡単に怒鳴りつける前に、何をしたのか、なぜしたのかを確かめる時の顔。
「一人で立てるか」
介助職員が訊いた。
「立てる」
「本当に?」
「ああ」
ハイエナが自分の両脚へ重心を戻す。
介助職員はそれを確かめてから、まず背へ回していた腕を外した。次に、肘を支えていた手を離した。
急に放り出すことはしなかった。
必要がなくなったから、正しい手順で離れただけだった。
その正しさが、拒絶より先にハイエナへ届いた。
支えられていた場所から温度が消える。
ハイエナの指が、何も掴めないまま一度だけ曲がった。
介助職員は一歩下がった。
「俺を好きになったことは責めない」
低い声だった。
「それは、お前が自分で持つ感情だからな」
ハイエナの耳が、介助職員の声を逃すまいと前を向く。
「でもお前は、俺が支援した利用者の好意も、この人の不安も、自分が俺へ近づくための道具にした」
「ああ」
「守秘を破れないことも、仕事を辞めないことも分かった上で、その間へ入ったんだな」
「分かってた」
「俺が、この人を大切にしてたことも?」
ハイエナの喉が、一度動いた。
「……見えてた」
介助職員は目を閉じた。
怒鳴らなかった。殴りもしなかった。
その沈黙の方が、ハイエナには長かった。
「お前は、俺を見てたんじゃない」
やがて介助職員が言った。
「俺の周りにいる人間を、俺へ届くための道にしてた。俺が一番されたくないやり方でな」
ハイエナは答えない。
「分かっていてやったお前を、俺は今、信頼できない」
尖った耳が、ゆっくり伏せた。
「支援上必要な時は、職員として対応する。だが、それ以外では俺に近づくな」
支援はする。
見捨てはしない。
けれど、その先には入れない。
ハイエナが欲しがった男らしい、どこまでも正しい拒絶だった。
「……分かった」
その返事だけは、いつものふてぶてしさを失っていた。
介助職員は事務職員へ向き直った。
「お前の事情も聞く」
「うん」
「こいつがしたことと、お前が手を上げたことは別だ」
「……うん」
「理由があっても、利用者を叩いていいことにはならない」
事務職員は俯いた。
「君は、本当に変わらないね」
「変わっちゃいけないところだ」
「知ってる」
守秘を破らない。
必要な相手へ手を出す。
事情と行為を分けて考える。
そういう男だから、好きだった。
そういう男だから、別れた。
「知ってるよ」
もう一度言うと、介助職員の顔がわずかに歪んだ。
けれど、二人の距離は縮まらなかった。
「ここで続ける話じゃない。上へ報告する」
誰も異を唱えなかった。
*
騒動は、その日のうちに正式な支援記録へ接続された。
三人は別々に事情を聞かれた。
事務職員の前には、福祉担当の統括官が座った。
「君が怒った理由については、事情として確認します」
声は静かだった。
事務職員が何をされたのか、どんな意図で心理を揺さぶられたのかを、一つずつ記録していく。
「ですが、利用者へ手を上げた事実とは分けて扱います」
「はい」
「彼の行為が、君の平手打ちによって軽くなることはありません。同じように、彼の行為が、君の平手打ちをなかったことにすることもありません」
「……はい」
事務職員は言い訳をしなかった。
自分の手が動いた瞬間を、何度も思い返した。
止められなかったのではない。
止めなかったのだ。
その事実も、ハイエナに弱い場所を使われた事実と同じように、自分のものとして引き受けなければならなかった。
利用者対応の窓口からは一時的に外れる。
人型化準備中の利用者との私的接触も控える。
事務業務は継続し、窓口への復帰については振り返りを確認した上で改めて判断する。
具体的な期間は、その場では決められなかった。
介助職員は、目撃者として経緯を確認された。
「よろけた利用者を支えた対応に問題はありません」
担当者からそう告げられても、彼の表情は晴れなかった。
「真相を知ったあと、俺は手を離しました」
「本人が自力で立てることを確認してからですね」
「はい」
「それなら、転倒を防いだ後に必要のない介助を終了した対応です」
適切だったと言われても、手に残った感触までは消えなかった。
自分を求めた利用者。
自分を利用されて傷ついた元恋人。
どちらかだけを簡単に悪者にして終えることはできなかった。
それでも、今後の私的な接触を拒む意思は変わらなかった。
ハイエナは教官と支援担当者の前で、事実関係をほとんど否定しなかった。
「仲間へ計画を共有したか」
「してねぇ」
「利用者の機密を探らせたことは」
「ない。廊下や食堂で、勝手に見聞きできることだけだ」
「意図的に事務職員へ情報を届けたことは認めるんだな」
「ああ」
「なぜ、今になって自分から話した」
ハイエナは少しだけ目を細めた。
「聞かれたから答えただけだ」
「黙ることもできただろう」
「もう隠す意味がねぇと思った」
教官はすぐには記録板へ書き込まなかった。
「お前の行為については、対人関係形成と狩猟本能の社会的な扱いから再評価する」
「好きにしろよ」
「卒業判定も、再評価が終わるまで進めない」
ハイエナの耳が、ほんの一瞬だけ立った。
「……分かった」
その反応を、教官は驚きだと受け取った。
介助職員は通常勤務へ戻った。
事情を知らない段階で利用者保護を優先した対応は適切であり、職務上の問題はないと判断された。
*
数日後。
ハイエナは教官から、事務職員への措置を聞いた。
「窓口からは一時的に外れるが、事務業務は続ける。今後は本人の振り返りを確認して復帰判断だ」
ハイエナは無言で聞いていた。
「何だ。その顔は」
「別に」
教官室を出て、扉が閉まる。
廊下に誰もいないことを確かめると、ハイエナは低く舌打ちした。
(……くそ。ぬるすぎたか)
コメント
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うわあああ第41話…読んだ読んだ!!😭💦 ハイエナが「最初から俺が欲しかったのはお前だ」って言ったシーン、マジで心臓止まるかと思った…!でも介助職員の「支援はするけど信頼できない」って正しすぎる拒絶が刺さる…。あの「手が離れる」描写、支えがなくなった時の温度の消え方まで書かれててエモすぎるよ…! 事務職員が手を上げたのも、ちゃんと理由あるのに「止めなかった」って自覚してるところが重くて良かった…。誰も完全な悪者にならない、このバランス好きすぎる!! 最後の「ぬるすぎたか」って舌打ち、ハイエナらしくて笑ったけど、この先どうなるんだろ…!続き気になりすぎる!!🌸