テラーノベル
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あの日、大輪の花火が夜空を焦がした熱狂から数日が過ぎていた。
会社の重厚な石造りのロビーを通り過ぎながら、僕はふと、半歩先を歩く尊さんの背中を目で追った。
あの日──成田薫が僕たちの前に現れてから彼の纏う空気は一変してしまった。
普段なら周囲を射抜くような鋭い視線は、今はどこか焦点が合わず、所在なげに宙を彷徨うことが増えた。
デスクに座っていても、ふとした瞬間に深く重いため息がこぼれ、手元の資料ではなく窓の外の遠い空をぼんやりと眺めている。
「……尊さん?」
雑踏に紛れるような小声で呼びかけても、すぐには反応が返ってこない。
数拍置いてから、霧の向こうから引き戻されたような顔で俺を見る。
その瞳には、かつての冷徹なまでの冴えはなく、ただ所在ない不安が揺らめいているように見えた。
胸の奥がチリチリと焼けるような焦燥感に駆られながら、会社を出たその瞬間だった。
「やっほ~!また会ったねぇ〜?」
鼓膜にへばりつくような、粘り気のある甘ったるい声が響いた。
全身の血が指先から凍りつくような感覚が走る。
視線の先、逆光の中に立っていたのは──成田薫だった。
趣味の悪い派手なシャツの襟元を崩し、歩くたびにジャラジャラと金属音を立てるアクセサリー。
彼は品性のない笑みを浮かべ、獲物を追い詰める蛇のような足取りでこちらに近づいてくる。
隣にいた尊さんの気配が、凍りついた。
瞳孔が限界まで収縮し、呼吸がひきつるように浅くなる。
その震えが伝わってきた刹那──。
俺は無意識に、尊さんの前に飛び出していた。
「……何の用ですか」
低く唸るような、自分でも驚くほど冷えた声が出た。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく打ちつける。
恐怖がないわけじゃない。
けれど、背後にいる尊さんのことを考えると、それは使命感へと変わっていく。
(尊さんのこと守らなきゃ……絶対に、俺が)
成田は面白がるように、三日月型に目を細めて笑みを深めた。
「おれぇ、尊くんに用があるんだけどなぁ」
舌なめずりをするような卑猥な視線で俺の全身を舐めまわしてから、その毒針のような視線を尊さんへと突き刺す。
「ねぇ尊くん? そんな雑魚より、俺の方がよくない?」
その言葉に含まれた仄暗い執着に、背筋がゾッとする。
だが、尊さんはいつまでも立ち尽くしてはいなかった。
「……恋、構う必要はない。行くぞ」
絞り出すような声。
尊さんは俺の手を強く引き、成田を視界から排除するように横切ろうとした。
そのとき、瞬きの間に、成田の細い指が尊さんのネクタイをグイッと乱暴に掴み取った。
「予備殺人鬼のくせして、一丁前に恋愛ごっこなんかしてんだぁ? 俺のことは簡単に捨てといてさぁ」
「な、なんでそんな酷いこと…っ!!平気で言えるんですか……っ!」
思わず声を荒らげると、成田は心底呆れたように俺を見下してきた。
「は?黙ってろよ」
「…っ!」
刃物のように鋭く低い声に思わずビクッとする
「俺はさぁ、尊くんに言ってんの。20歳のガキに興味無いのぉ!」
しかし、尊さんが咄嗟に成田の手を力任せに引き剥がす。
その顔は蒼白で、唇は血の気が引いて真っ白になっていた。
「……っ、尊さん、こんな人無視して行きましょう……っ!」
俺は成田の呪詛のような笑い声を振り切るように、尊さんの手を強く引いた。
逃げるように角を曲がり、人混みの中へ。
背後から聞こえる成田の含み笑いが遠ざかっていくのを感じながら、心臓の鼓動が落ち着くのを待たずに歩き続けた。
曲がり角をいくつか過ぎ、大通りに出たところでようやく速度を緩めた。
「……悪い、心配かけた」
ぽつりと漏れた尊さんの声には、いつもの覇気がひとかけらもなかった。
繋いだままの手が、わずかに震えているのが伝わってくる。
「尊さん……大丈夫、ですか?」
俺は立ち止まり、彼の大きな手を両手でそっと握り直した。
彼の指先が驚いたように小さく跳ねる。
「……ああ」
返ってきたのは、いつもの自信に満ちた低音ではなく
今にも消えてしまいそうな、か細く脆い響きだった。
「……恋は、大丈夫か?」
「俺は全然…それより、ただ尊さんが心配で……。あんな人の言う言葉なんて、1ミリも気にしないでくださいね……!!」
必死に訴えかける俺の言葉に、尊さんはゆっくりとうなずいた。
けれど、その瞳の奥深くでは、依然として消えない影が澱のように揺らいでいる。
(やっぱり……尊さんでも、トラウマの人に会ったらキツイんだろうな。俺だって、あんな化け物みたいな人と何度も会ったら冷静でいられる自信がない。普段クールに振る舞っている尊さんだからこそ、崩れた時の反動が大きすぎるのかも……)
だったら、この人が完全に壊れてしまう前に。
今は、俺にできることのすべてをしよう。
この人を、少しでも明るい場所へ連れ出すんだ。
◆◇◆◇
9月の中旬。
厳しい残暑がようやく落ち着きを見せ始めた頃、俺は尊さんを旅行に誘った。
お互いに余っていた有給を無理やり合わせ、向かったのは温泉地。
成田薫の影に怯え、オフィスでも自宅でも塞ぎ込んでいた尊さんを見て
居ても立っても居られなくなった結果の強行軍だった。
尊さんの好きなものをリストアップし、移動手段から宿のグレードまで、すべて俺が手配した。
彼が何も考えず、ただ俺の隣で呼吸を整えられるように。
そうして迎えた、デート当日──。
新幹線のホームに滑り込んできた車両に乗り込み、俺たちは指定席に腰を下ろした。
隣に座る尊さんの横顔を、悟られないようにちらりと窺う。
窓際の座席に深く背を預け、肘をついて流れる景色を眺めている尊さん。
新幹線がトンネルを抜けるたび、車内の明かりと外の光が交互に差し込み
彼の切れ長の瞳に街の灯が星のように反射してキラキラと輝く。
時折、流れる雲を目で追う彼の表情は、会社で見せる無機質なものより、ずっと柔らかく解けているように見えた。
「……ふふ」
「なんだ、恋。人の顔を見て」
「あ、いえ、尊さんリラックスしてるみたいで、誘って良かったなって」
「……そうか」
ぶっきらぼうな言い方だけど、その声には確かな体温が宿っていた。
コメント
1件
最高なデートが始まった......