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新幹線を降り、辿り着いたのは熱海の名宿「古屋旅館」
創業200年を超える老舗の重厚な門構えに少し緊張しながらも、チェックインを済ませて部屋へと通される。
「失礼します……うわぁ……!」
案内された客室は、広々とした畳の香りが心地よく、その奥には専用の露天風呂が鎮座していた。
「尊さん! 見てください、すごく良い景色ですよ!」
ベランダへ飛び出すと、そこには熱海の街並みと、その先に広がる穏やかな海が一望できた。
「……いい眺めだ。風も心地いい」
尊さんも俺の隣に立ち、静かに目を細める。
彼が少しだけ深く息を吸い込むのを見て、俺は胸の内で小さくガッツポーズをした。
「あっ、そうそう、ここから少し歩いたところに尊さんの好きなタリーズもあるんです。温泉街を散策したあとに、寄り道しませんか?」
「ああ、丁度いい。まずは温泉街だな。土地の空気を吸っておきたい」
そう言って、尊さんは手際よく散策の準備を始めた。
しばらくして、身軽な格好に着替えた俺たちは、期待を胸に旅館の玄関を後にした。
温泉街は、平日にもかかわらず多くの観光客で賑わっていた。
干物の焼ける香ばしい匂いや、蒸したての温泉饅頭の湯気。
そんな活気ある空気感に当てられて、俺の胸はさらに高鳴る。
隣を歩く尊さんも、普段の革靴ではなく歩きやすい靴を選んだせいかその足取りは心なしか軽そうだ。
俺たちは熱海駅前のバスターミナルへ向かい
最初の目的地、MOA美術館行きのバスに乗り込んだ。
◆◇◆◇
バスに揺られること約7分
急勾配の坂を登りきった先に現れたMOA美術館は、まるで天空に浮いているかのような洗練された美しさを放っていた。
展示室に足を踏み入れると、尊さんはそれまでの穏やかな顔から一変
真剣な「審美眼」を持つ男の顔になった。
一点一点の掛け軸や、緻密な工芸品を、微動だにせずじっと見つめている。
長いエスカレーターを上り詰め、辿り着いた円形ホール。
天井に映し出される世界最大級の万華鏡画を見上げた時、尊さんがふと足を止めた。
刻一刻と形を変え、極彩色に変化する天井を仰ぎ、彼は吐息をつくように呟いた。
「……見事なものだな。これほど静かに、だが力強く訴えかけてくる美しさは、そうそう目にかかれない」
その横顔があまりに綺麗で、彼が心からこの場所を楽しんでくれているのが伝わってきて
俺は尊さんにバレないよう、背中で密かにガッツポーズを作った。
次に向かったのは、バスで移動して「熱海梅園」
日本一早咲きの梅と、日本一遅い紅葉で知られる名勝だ。
「今の時期は……緑が深くて、これはこれで趣がありますね」
初秋の庭園を歩きながら、俺は木々の間から差し込む木漏れ日に目を細める。
尊さんは、さらさらと流れる小川のせせらぎや、風に揺れる葉のざわめきに静かに耳を傾けていた。
「ここは空気の匂いが違うな。土と、植物の生命力が混じり合っている。都会の喧騒を忘れるには、これ以上の場所はない」
「ふふ、俺も尊さんとこうして、時間を忘れてゆっくり歩けるなんて、最高に贅沢だなって思います」
少し照れくさそうに笑うと、呆れたように
けれど慈しむような眼差しを向けて、俺の歩幅に合わせてゆっくりと歩を進めてくれた。
そこからさらに足を伸ばし、熱海の象徴とも言える「熱海城」へ。
山の上にそびえ立つ天守閣の展望台に上がった瞬間、目の前には360度の大パノラマが広がった。
「うわぁ……すご……っ!!」
眼下に広がるのは、どこまでも青く澄んだ相模灘。
そして、海岸線に沿ってひしめく熱海の街並み。
強い海風に髪を激しく乱されながらも、俺はその圧倒的なスケール感に言葉を失った。
隣で手すりに手をかけた尊さんも、眩しそうに目を細めて街を見下ろしている。
「圧巻だな。地上の喧騒がこれほど小さく見える」
「ですよね……俺たちがさっき歩いてきた道も、あんなに小さく遠くに……」
尊さんの瞳には、午後の陽光をキラキラと跳ね返す紺碧の海が映っていた。
その美しさに、俺は景色よりも彼に見惚れてしまう。
最後に訪れたのは、新しい観光スポットとして話題の「熱海山口美術館」だ。
ルノワールから岡本太郎まで、古今の名画と現代アートが共存する独特の空間。
「ここ、ただ見るだけじゃなくて、自分で作品に触れたり体験できたりするコーナーもあるんですよ」
「なるほどな、こうした新しい感性に触れるのも悪くない」
館内を散策しながら、俺たちは一つひとつの作品について感想を語り合った。
俺のたわいもない、芸術的素養ゼロの感想にも
尊さんは「恋らしい視点だな」と否定せずに優しく返してくれる。
芸術の香りに囲まれて、俺たちの心の距離がいつもの日常よりずっと密接に、深く縮まったような気がした。
ひと通り歩き回り、心地よい疲れがふくらはぎに溜まってきた頃。
美術館を出ると、夕暮れ時の黄金色の風が優しく頬を撫でた。
「ふぅ……たくさん歩きましたね、尊さん」
「……だな、そろそろ休憩にするか」
尊さんの表情は、今日一日で驚くほど晴れやかになっていた。
そうして俺たちは来た道を引き返し、予定通りに、休憩を兼ねてタリーズコーヒーに向かった。