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#略奪
秘翠ミツキ
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木曜の朝、課長が私の机の前で、お茶を持ったまま立っていた。
「水瀬さん。突き返された決裁、どうする」
「出し直します」
「四回目だよね」
「四回目です」
課長は、まあまあ、と言って席に戻った。それ以上は聞かない人だ。だから私も、それ以上は言わなかった。
決裁書の束を開いた。各階の消耗品の一括補充、総額六万二千円。五万円を超えると専務の決裁。三回、同じ付箋で戻ってきた。
根拠を添えて。
私は台帳を開いた。
二階から七階まで、階ごとの月の消費量。青いペン、黒いペン、付箋、コピー用紙の予備、コーヒーのフィルター。比べるのは、三年ぶんで足りる。前の年の同じ月との比べ方も、頭の中にある。
今まで添えなかったのは、添えようと思わなかったからだ。この台帳は私の物で、数字は私の字で、それを人に見せるのは、何か違うと思っていた。
でも、水曜の昼、専務は言った。お前の記録はどこまで出る。数えられるものは全部、と私は答えた。
一枚にした。階と品目と、月の消費量と、前年比。一時間かからなかった。
決裁書の後ろに留めて、課長の一次承認をもらって、七階に回した。
十時十二分。
十時二十二分、決裁書が戻ってきた。
承認の印。付箋はない。
「……課長」
「ん」
「通りました」
課長が、お茶を持ったまま立ち上がった。
「通った!?」
フロアの全員が、課長を見た。課長は座らなかった。私の机まで来て、決裁書を取り上げて、承認の印を三度見た。
「十分で?」
「十分でした」
「水瀬さん、何付けたの」
「台帳の数字です」
課長は、後ろに留めた一枚をめくって、しばらく読んで、何も言わずに私に返した。
小森さんが、机の下で小さく拍手をしていた。
給湯室で湯を汲んでいると、後ろで声がした。
「水瀬さん。社長の名前で聞きたいんだけど」
氷室さんだった。社長の名前で、と言うときの笑顔は、いつも同じだ。
「同居って、本当?」
「はい」
「へえ。早いのね」
氷室さんは自分の湯のみに湯を入れて、入れながら私の左手を見た。
「指輪、ちょっと大きくない?」
「合っています」
「そう。よかった」
それだけで、氷室さんは出ていった。私は自分の分を入れて、少しのあいだ、湯気を見ていた。テープは、外からは見えない。見えないはずだった。
夜、マンションに帰って、台帳を机に広げたところで、スマホが鳴った。
消していなかった番号だった。消す理由を、三か月のあいだ見つけられなかっただけだ。
出ないつもりで、画面を伏せた。二回目も伏せたままにした。三回目に鳴ったとき、私は出ていた。
「お前、専務に何を話した」
佐伯さんの声は、会社で聞く声より低い。付き合っていたころ、二人のときだけ出していた声だ。
「何も」
「嘘つけ。下書きの話、お前だろ。お前が専務に言ったから、あんな聞き方」
「何も話していません」
「じゃあ何で、専務がお前と」
「切ります」
「待て、ひよ――」
切った。
手が震えている。私はスマホを伏せて、机の上の台帳を両手で抱えた。抱えたまま動かないで、震えが止まるのを待つ。
台帳は角が擦れていて、六年ぶんの厚さがある。二分ほどで、止まった。
鍵の音がして、専務が帰ってきた。靴箱の音、台所の入口。私は台帳を机に戻して、スマホを引き出しに入れた。
「決裁、通りました」
「見た」
「十分でした」
専務は上着を脱いで、椅子の背にかけた。それから、言った。
「半年、待っていた」
「……何をですか」
「台帳の数字が、決裁書に付いてくるのを」
専務は、私の机の上の台帳を見た。
「お前は、台帳を持っている。各階の数字を全部持っている。それを出せば決裁は一度で通る。なのに、出さない。三回、同じ紙を出してきた」
「……」
「腹が立った」
私は台帳の上に手を置いた。
「私の物なので」
「会社の数字だ」
「書いたのは、私です」
専務が黙った。それから、短く、言った。
「……そうか」
専務は台所に行って、水を飲んだ。戻ってきて、もう一度私の台帳を見る。
「電話は、誰だ」
引き出しに入れたスマホを、見られていたらしい。
「……元の、知り合いです」
「知り合い」
「はい」
専務はそれ以上聞かなかった。聞かないまま、椅子の背の上着を取って、自分の部屋の扉の前で止まった。
「お前の手が震えているのは、初めて見た」
「……台帳を書くときは、震えません」
「そうか」
扉が閉まった。
根拠を添えて。三枚の付箋は、まだ引き出しの箱の中にある。半年ぶん、待っていた人の字で。
私は台帳を閉じた。
日曜の午後、高梨さんの運転する車の中で、専務は一度も口をきかなかった。
私は紺のワンピースを着ていた。クローゼットにある中で、いちばんきちんとしたものだ。鞄には、何もない。台帳は家に置いてきた。持っていっても、今日は数える物がない。
車が世田谷の住宅地に入って、古い、大きな家の門の前で止まった。門から玄関まで、石が敷いてある。
専務は車を降りて、門を見た。何も言わない。それから、私の左手を一度見た。指輪は、テープで回らない。
石の上を歩いた。玄関の前で、専務が呼び鈴を押す前に、扉が内側から開いた。
今日は白いコートを着ていない。淡い色のワンピース。でも、まっすぐこちらを見る目は同じだった。
「いらっしゃい、ひよりさん」
東雲さんが、玄関の中に立っていた。
コメント
1件
うわあ…第5話、めっちゃ深いところきたね😭💕 決裁通ったときの課長の「通った!?」からの全力リアクション、フロア全员で見てる感じがめっちゃ好き。小森さんの机下拍手も可愛い〜! でもラストの東雲さん登場、まじで「え、そう来る!?」ってなったわ。“ひよりさん”呼びがもう全てを物語ってるし、社長の名前で探り入れてくる氷室さんの伏線も回収されてく感じがたまらん。 台帳めぐる専務との静かな攻防もエモい。手の震えに気づく専務の“夫”感よ…。続き気になりすぎる〜〜!!🌸