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進路希望調査票が、また配られた。
前と同じA4の紙。
「第一希望」「第二希望」「その理由」。
でも、今回は一番上に赤い字でこう書いてある。
《前回よりも“具体的な記入”を心がけること。
※大学名・学部名が書ける者は、できるだけ記入すること》
教室のあちこちから、ため息が漏れた。
「出た、“できるだけ”お願いしてくるやつ」
村上がプリントをひらひらさせる。
「お前はもう書けるんだろ?」
「まあな。とりあえず、○○大学 経済学部で出しとくわ。
変わる可能性あるけど、“仮”ってやつ」
あっさり言うその感じに、少しだけ羨ましさを覚える。
「安藤は?」
「……“仮”で書いていいなら、書く候補はできた」
思わずそう答えていた。
「お、言うじゃん。どこ?」
「地元の国公立の文系。
“東西市立大学 人間社会学部”ってとこ」
完全に架空の大学というわけではなく、
県内でそこそこ名前が知られている中規模の地方公立。
山本さんとの面談で、地図の中に丸をつけた中の一つだ。
「なんかそれっぽいとこ出してきたな」
村上はニヤニヤしている。
「“それっぽい”で選んでるわけじゃないんだけどな」
そう反論しつつも、
自分でも“それっぽい”という言葉が完全には否定できなかった。
◇
昼休み。
教室の隅で、桐谷が自分の進路票を眺めていた。
「桐谷は、もう確定?」
声をかけると、彼女は顔を上げた。
「第一志望はね。
○○短大の保育科。前から言ってるとおり」
そう言いつつ、用紙を軽く振る。
「問題は“第二志望”だよ。
“もし落ちたとき、どうするか”なんて、今考えたくないし」
「第二志望、就職とかにしないの?」
冗談半分で聞くと、桐谷は少し真面目な顔になった。
「一瞬考えたけど、やめた。
“保育やりたい”って言っておきながら、
“落ちたら就職でいいです”って書くの、
なんか自分で自分に保険かけすぎな気がして」
「……保険かけちゃダメなの?」
思わず聞いてしまう。
桐谷は箸をいじりながら言った。
「かけてもいいと思うよ。
ただ私の場合、“夢に保険をかけてる自分”が、
あとから絶対イヤになりそうだから」
「なるほどな」
俺の場合は、そもそも“夢”というほどのものがない。
だからこそ、
“保険なのか本命なのか分からない選択肢”ばかり増えていく。
「安藤は? 第一志望、書けそう?」
「……仮なら、書けるかなって感じ」
「仮でも書くの、結構大事だよ」
桐谷は、意外とまじめな声で言う。
「そこに大学名を書くってことはさ。
“今の自分は、とりあえずそこを目指すつもりです”って、
自分にも先生にも見せることになるから」
「……それが怖いんだけどな」
「怖いよね」
あっさり認められて、少し救われた。
「でもさ、“怖いけど、仮で置いてみる”って感覚、
案外大事なんじゃないかなって思う。
だって、何も置かなかったら、
何に向かって勉強するのかも分かんないでしょ?」
「……まあ、そうか」
“仮で置く”。
大学名を選ぶ行為を、
最初から“絶対の決定”にしない考え方。
少しだけ、ハードルが下がる気がした。
◇
放課後。
いつものように自室の机に向かい、
進路希望調査票を広げる。
『第一希望 大学・学部・学科』
その下の空白。
今までは、真っ白なまま見ないふりをしてきた。
でも今日は、
ボールペンの先をその枠の中にそっと置く。
――東西市立大学 人間社会学部
ゆっくりと、文字を書いていく。
書きながら、手が少しだけ震えているのがわかった。
“ここに行けるかどうかも分からないのに、
こんなふうに書いてしまっていいのか”。
そんな声が頭の端っこで騒ぎ始める。
書き終えて、上から見返してみる。
『第一希望 東西市立大学 人間社会学部』
黒インクの文字が、やけに濃く見えた。
「……仮だ。
これは、“今時点の仮置き”」
わざと声に出してみる。
“仮”なら、変えてもいい。
でも、“適当”とは違う。
今の自分が、家の事情も、自分の科目の得意不得意も、
将来のぼんやりした不安も、全部並べたうえで、
“とりあえずここを目指すのが、一番マシそうだ”と考えた結果。
それくらいの重さは、ちゃんとある。
『第二希望』の欄には、
まだ大学名を書けなかった。
“とりあえず私立文系”とだけ、ペンを走らせる。
それ以上は、今の段階では薄っぺらくなりそうだったから。
◇
調査票をファイルに挟んでから、
スマホを取り出す。
山本さんとのチャットに、新しいメッセージを打った。
『第一希望の欄に、
“東西市立大学 人間社会学部”って書いてみました。
まだ仮ですけど、
今の自分的には、ここを目指すのが一番マシかなって思ってます』
送信ボタンを押すと、
すぐには既読にならなかった。
塾はちょうど授業の時間帯だろう。
数十分後。
ふと机の上の参考書に目を落としていたとき、スマホが震えた。
『いいね。
“ここが絶対に夢の大学です”じゃなくて、
“今の条件の中で、一番マシな候補”って決め方ができてるの、
すごく健全だと思うよ』
『この前のメモのとおり、
・文系
・家から通える
・学費も現実的
・社会系・歴史系にもつながる
全部ちゃんと条件の中に入ってる。
いい“仮のゴール”だと思う』
文章の最後に、こう書いてあった。
『“仮のゴール”が見えたら、あとはそこまでの道を一緒に考えよう』
もう一通、メッセージが届く。
『次の面談のとき、
その大学の入試科目と、今の成績と、
大ざっぱな必要ラインを一緒に見てみよう。
“今のままだと届かない”って現実も含めて、
ちゃんと見えるようにしておこう』
“届かない”という言葉に、
少しだけ胸がざわつく。
でも同時に、
“届かないなら、どれくらい足りないのか知りたい”という気持ちもあった。
――何も見ないでビビるより、
見たうえでビビったほうがマシだ。
そんな発想が浮かぶ自分に、少し驚く。
『分かりました。
とりあえず、今は“仮のゴール”に向けて、
数学と英語の基礎からやり直しておきます』
そう返信してから、スマホを伏せた。
◇
机の引き出しから、いつものメモ帳を取り出す。
『やりたくないこと』
『“決まってなくていい時間”を、ちゃんと使う』
『決まらない理由を、言葉にしておく』
『家の事情も、自分の事情も、ちゃんと並べてから決める』
その下に、新しく一行を書き足した。
『はじめて“仮のゴール”として大学名を書いた』
それだけのことなのに、
今までとは違うページに進んだ気がした。
やりたいことが見つかったわけじゃない。
でも、“どこに向けて歩くか”を、とりあえず決めた。
その差は、思っていたより大きい。
メモ帳を閉じて、
数学の問題集を開く。
ページの端に、小さく書き込んだ。
『東西市立 人社・仮』
それを見て、
ほんの少しだけ、ペンを握る手に力が入った。
(第10話 おわり)