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仁宇《にくま》高校教師である香澄《かすみ》は不倫をしていた。
相手は同じ教師である一樹《かずき》。
生徒会の指導員を受け持ったのをきっかけにして、気がつけば肉体関係を持っていたのだ。
一樹の妻が妊娠中で全然相手をしてくれない……などというものだから、仕方なく慰めてあげた。
香澄には当時付き合っていた彼氏もいたのだが、一般的なサラリーマンの彼氏とは時間を合わせづらくて喧嘩が絶え得なくなっていた、というのも不倫に足を踏み入れる原因の一つだったように思う。
彼氏とは不倫関係を始めてから程なくして別れた。
勿論不倫関係を明かしたりしていない。
ただ仕事ですれ違いが多くて寂しいから、お互い関係を考え直そう? と提案したのだ。
そこで引き留めてくれれば付き合いを続ける可能性もあったのだが、もしかしたら彼氏にも他に相手がいたのかもしれない。
あっさりと別れてしまった。
そんな彼氏への当てつけもあったし、奥さんへの優越感もあったのだろう。
ふと我に返ったときには、深みにはまっていたのだ。
不貞行為には厳しい学校だったので、慎重に隠していたつもりだった。
三ヶ月はしっかり隠せていたはずだ。
けれど半年が過ぎた頃には、すれ違いざま他の教師に、最低、とか不倫女乙! とか、慰謝料の準備はできていますか? などと吐き捨てられるようになった。
何事もなかったようにスルーして、ガン無視をしていたけれど一樹にはそれができなかったようだ。
だんだん顔色が悪くなって、しまいには別れ話を持ちかけられた。
当然、断った。
一樹には奥さんがいる。
自分に彼氏はいない。
狡いでしょ?
それに他の教師にばれたからって、嫌味を言う以上のことを奴らはしてこない。
不倫以外のマズいことをしてるからね。
奥さんにたれ込めば、自分もマズいことを上に告げ口されるって理解しているから。
教頭や校長といった上からは何も言われていない。
奥さんにもばれていない。
だから止める必要はない。
そう言って一樹を説得した。
一樹は迷っていたが結局継続を望んだ。
奥さんより一回り若くて、スタイルもいい香澄を手放すのが惜しかったらしい。
そんな言葉を口にしていたので間違いないだろう。
結局一年は続いた。
もう一度別れを持ち出されたのは、奥さんにばれたから。
そして校長に二人揃って呼び出されたから。
さらには香澄の妊娠が発覚したから。
校長に言われたのは、奥さんへ慰謝料を払うことと一樹と別れること。
あとは生徒会の指導員をやめること。
生徒会に関してはどうでもよかったけれど、慰謝料と別れは嫌だった。
けれど一樹は了承してしまった。
しかも一樹は、認知を迫る香澄に堕ろしてくれと冷たく言い放ったのだ。
絶対に別れるし、慰謝料も払ってもらうと。
堕胎の料金は支払うと言われたが付き添いは当然のように拒否された。
付き添いができないなら、慰謝料と堕胎料金を相殺してほしいと交渉しても、額が違うし相手も違うと罵られた。
まるで香澄ばかりが悪いと責め立てられるのには納得がいかなかった。
そもそも避妊はしっかりしていたのだ。
生理管理もしていたし、ピルも飲んだ上で、男性用避妊具だってつけていたというのに。
運が悪かったとしかいいようがない。
両親には相談できなかった。
不倫の上で妊娠したなんて、激怒されるのがわかっていたから。
親友には相談した。
旦那に浮気をされて離婚を選んだ親友は、アドバイスなど一つもくれずにその場で絶縁されてしまった。
友人にも相談した。
不倫相手と別れて、慰謝料を払って、子供は……生むなら覚悟を決めて、責任を持って、御両親にも早めに話をした方がいい、そんな返答のあとで、絶縁された。
最良は奥さんと離婚してもらい、香澄は教師を辞めて、専業主婦として、子供を一樹と一緒に育てていく。
最大限譲歩しても、慰謝料を支払って、教師は辞める。
その代わりに子供は産んで認知をしてもらい、養育費をしっかりと支払ってもらうつもりだった。
けれど一樹は一切の譲歩を受けつけなかった。
生徒会の指導員はすぐに辞めたが、それ以外は交渉をしたかったので、奥さんに連絡した。
呼び出したのはファミレス。
学校からも自宅からも離れた場所を選んだ。
何度か一樹と訪れたときに感じた雑多な雰囲気が、人に聞き耳を立てられないだろうと踏んだのだ。
ファミレスに現れた奥さんは、こっそり盗み見た携帯のフォルダ内にあった画像よりも数倍若く、数倍綺麗な女性だった。
香澄とは方向性が違う。
比べようがない。
だが、美人だった。
正直にいえば勝てるのは年齢だけだと唇を噛み締めるほどに。
奥さんは冷静だった。
泥棒猫! とか叫ばれながら、水をかけられる修羅場を想像したが、奥さんはまるで一樹に愛情がないかのように淡々としていた。
内心で、だから浮気されるのよ! と勝ち誇ったが、どこかむなしい。
『こちらとしましては、子供もおりますし、主人も二度としないと申しているので、離婚は考えておりません』
想像通りの返答だった。
周囲は決して静かではないのに、繊細な素材のスカートを握り締める音が耳に響く。
『主人は堕胎をお願いして、堕胎費用を支払うとのことでしたが、そちらは堕胎を了承していらっしゃいますか?』
『……生みたいです。認知と養育費の支払いは譲れません。本当は、一樹さんと一緒に子供を育てたいです』
どうせ否定されるだろうが意見は言っておくべきだと、己の思いをしっかりと口にする。
『堕胎は母体の負担も大きいですし、主人が納得すれば認知と養育費の支払いにも応じます。ですが、離婚はしませんし、慰謝料は支払っていただきます』
『そんな!』
『支払えないというのであれば、御両親に連絡いたしますが……』
『卑怯よ!』
『既婚者と不貞行為に及び、相手の意思に反して妊娠するのは卑怯ではないのですか?』
『え?』
妊娠は香澄が計画したものではない。
一樹が計画したものでもないが。
それなのに、一樹は奥さんに香澄一人が悪者だと告げているのだ。
自己保身が酷い。
酷い。
『酷い……』
『慰謝料は正当な額だと思います。堕胎の件は主人と話し合ってください。それでは、失礼いたします』
『あ!』
香澄の怨嗟は全く届かなかったらしい。
もっと文句が言いたかったのに、頼んだブラックコーヒーを綺麗に飲み干した奥さんは伝票を持って席を立ってしまった。
カフェインレスのコーヒー代を渡す余裕など全くない素早さだった。
奥さんを呼び出したのが一樹にばれて迫られた。
もう入る権利をなくした生徒会室で、子供は絶対に堕ろして、さっさと教師を辞めろとまで暴言を吐かれてしまった。
そろそろ堕胎できる週数も過ぎてしまう。
中期妊娠中絶ともなれば五十万近くかかるようだ。
堕胎する気はなかったが、費用は絶対に一樹に出させなければ気が済まない。
しかし香澄一人では一樹を説得できないだろう。
両親なら一緒に頼んでくれるだろうか?
や、両親は堕胎をして教師を辞めろと言うに違いない。
そういう、人たちなのだ。
だから不倫と妊娠を告白するのは、最後の手段。
どうすればいいのかと、お腹をさすって深い溜め息を一つ吐く。
吐いてからふと、昔から仁宇高校で囁かれている噂を思い出した。
通称 旧校舎に忽然と現れる箱。
恋愛に悩んでいる者は、旧校舎へ行け。
一人で行けば箱が現れる。
箱の中にはアネモネが入っており、そのアネモネの色で、悩みの解消手段が知れるのだ、と。
随分と胡散臭い噂で、香澄は今まで生徒に問われても、そんな根も葉もない噂は信じちゃ駄目よ! と窘めてきたのだが。
今は否定してきた噂にでも縋りたかった。
誰かに尋ねられたら忘れ物を取りに行くと言えばいいと覚悟を決めて、香澄は旧校舎へ足を運んだ。
遠くでは運動部が活動している声が聞こえる。
この時間、旧校舎へ入る生徒はいない。
教師は時々いるのだが、今日はいないと、職員室である在籍ボードで確認していた。
そろそろ夜になりそうなこの時間。
旧校舎の明かりは最低限しかついていない。
香澄は何処へ行けばいいのかと迷いながらも、生徒会室へと足を運ぶ。
旧校舎の生徒会室はほとんど使われていないので、一樹との逢瀬の場所でもあったからだ。
「……え?」
一樹が作った合い鍵で忍び込む。
部屋の中央にある机の上に綺麗な宝石箱が置いてあった。
花が入っているならもっと違う箱だと思っていたので、慎重に歩み寄る。
そっと蓋へ手をかけた。
鍵はかかっていない。
「ぁ、綺麗……」
中には紫のアネモネが入っていた。
しかもそのアネモネは宝石でできている。
生花ではない。
「えーと? これってどういう意味なのかしら……」
「紫のアネモネの花言葉は、あなたを信じて待つ」
「ひっ!」
「しんじて、まっていて、よかったよ?」
背後から声が聞こえた。
男性の声だ。
しかし、一樹の声ではない。
「ぼくとの、あかちゃん、うんでくれるよね? つまともわかれたし、きょうしもやめた。ぼくにはもぅ。きみしかいないんだよ……」
後ろから抱き締められる。
腹部を優しく摩られた。
一樹に言われたなら、どれほど嬉しかっただろう。
しかし香澄を抱き締める腕は氷のように冷たいのだ。
「わ、私、あなたとは行けないわ!」
「じゃあ、ここでまつことになるよ? しんじて、まてるの? ぼくみたいに、ずうっと、まてるの?」
一樹を信じられるのか。
結局奥さんを取るという一樹を待てるのか。
無理だ。
信じられないし、待てない。
「覚悟のない中途半端な貴女に、アネモネは与えられなかった。だから僕に与えられたこの宝石でできた花をあげよう。信じられない、待てない貴女に」
にゅるりと伸びた手が宝石箱の中に入っていた紫のアネモネを取り、香澄に手渡してくる。
アネモネは冷たく、重かった。
「さぁ、ぼくといこうか。そして、ぼくとあかちゃんをそだてよう」
「きゃ!」
いきなりお姫様抱っこをされた。
一樹にもされたことがない。
「別れたくない、堕胎したくない、慰謝料を払いたくない、御両親に罪を告白できない。僕と一緒にくれば全部解消されるんだから、僕を選ぼうよ」
そう言って顔を覗き込まれる。
男性だ。
それしかわからない、顔。
「だいじょうぶ、しんじて、まっているひとは、ぼくだけじゃない。みんな、あかちゃんをあいしてくれるよ」
「私も、愛してくれるわよね?」
香澄の言葉に男性は楽しそうに笑う。
愛してあげるとは、言われなかった。
「あいしてくれないなら、わたしは!」
「もう、ておくれだよ?」
視界が暗転する。
手から落ちたアネモネが砕ける儚い音が微かに耳に響く。
「あとはてきとーにやっておくから、きみはこどもをぶじにうむことだけをかんがえていればいいよ」
優しく額に落ちたたぶん唇は。
やはり氷の塊を押しつけられたかのように冷たかった。
妊婦に暴言を吐いてしまったと、後悔する一樹は職員室で小さく溜め息を吐く。
ふと気がつくと見覚えのない大きな封書が置かれていた。
一樹様と書かれた文字は、香澄が書くそれにしか見えない。
周囲の目線をそれとなく探りながら封書の中身を確認する。
現金の入った封書と辞表が入っていた。
「慰謝料はさて置き、辞表ぐらい自分で提出するのが筋……い、っ!」
聞こえないように文句を言いかければ、何か鋭いものが指先に触れて、指を切ってしまった。
嫌がらせかと思い、もう一度封書の中身を確認する。
中には紫色の花びらの形をしたガラス? が一枚入っていた。
一部欠けていたので、それで怪我をしたようだ。
「ん?」
封書に張りついて見落としていたらしい、一筆箋がひらりと出てきた。
「……え?」
あなたを信じられず、待てませんでした。
一筆箋には香澄の文字で、そう書かれていた。
紫のアネモネの花言葉 あなたを信じて待つ