これは『スノードロップ』前日譚の前編です
ぜひ本編を読んでからご覧ください
内戦が終わり、ハーロルトは数年ぶりに屋敷へと戻った。
「ハーロルト、よくやった!お前はこの国を救った英雄だ。」
父は嬉しそうな顔を浮かばせながらハーロルトを抱きしめる。
「いえ、父様と兄様のご教示があったからこそです。」
いつものように冷静な口調で言う。
「今日は御馳走だ。ついて来い。」
「承知いたしました。」
ハーロルトは父に連れられ、食堂へと向かう。
「ハーロルト!帰ってきてたか。」
食堂には兄がいた。
「戦場での活躍は聞いたぞ。ゆっくり聞かせてくれ。」
テーブルの上には豪華な料理が並んでいた。肉のローストに温野菜、焼きたてのパン。香ばしい香りが食堂を満たす。
父は上機嫌で、終始ハーロルトを称賛していた。
「お前の指揮は見事だった!」
「偶然が重なっただけです。」
「謙遜するな。英雄とはそういうものだ。己の力を誇らぬ者こそ真に偉大なのだ。」
兄は苦笑いを浮かべ、ワイングラスを軽く回す。
「父様、そのくらいに。ハーロルトは帰ってきたばかりなのですから。」
「まあまあ、いいじゃないか。兄としても誇らしいだろう。」
「もちろん、誇りに思っています。」
そう言いながらも、どこか遠くを見るような目をしていた。
ハーロルトは静かにナイフとフォークを動かしながら、心の奥で重く響くものを感じる。
「……ご馳走さまでした。」
食後、ハーロルトは席を立ち、丁寧に一礼する。
「お先に休ませていただきます。」
久しぶりに部屋へ入ると、突然足の力が抜けてその場に崩れ落ちた。床に手をついたまま、荒い呼吸を繰り返す。血の匂い、燃え盛る村、銃の引き金を引く感触。
「やめろ…………。」
耳の奥で誰かの悲鳴が響く。思考を止めようとすればするほど、戦場での記憶が湧き出てきた。まるで戦場の煙が、今も肺の奥に巣食っているように。
「……何が“英雄”だ。」
吐き捨てるような言葉は、誰もいない部屋の中に消えていく。
朝焼けの中、鳥たちが軽やかにさえずっている。穏やかな風が草花を揺らし、まるで戦の影など存在しなかったかのように平和だった。
ハーロルトは、朝食の席に着く。目の前のスープからは湯気が立ち上り、香草の香りが鼻をくすぐる。しかし、スプーンを手に取っても、手が小刻みに震えているのが分かった。
「どうした、食べないのか?」
兄の声に顔を上げると、スープの中に赤色を捉えた。ただのトマトの欠片。だが、一瞬それが血の滴に見えた。
スプーンが皿の中に落ち、音が響く。視界の端に火の粉が散り、焦げた臭いが蘇る。脳が錯覚しているだけだと分かっていても、体が勝手に反応してしまう。
「……失礼いたしました。」
掠れた声でそう言い、ハーロルトは席を立った。父の呼びかけも耳には届かない。
廊下に出ると、冷たい石の床が足元に広がる。壁に手をつきながら歩くその姿は、あの英雄の面影とは程遠かった。
屋敷の外で煙が上がっているのが見えた。農夫が枯れ草を焼いているだけ。そう理解するよりも早く、ハーロルトの心臓が激しく鼓動した。
「燃えてる……?また……?」
呼吸が浅くなる。視界が狭まり、耳鳴りがした。頭の奥で、またあの悲鳴が響く。
「……やめろっ!」
気づけば、腰のあたりを掴み、銃を探していた。だがそこにあるのは、ただの虚空。そのまま膝から崩れ落ちる。汗が背中を伝い、地面に溢れる。
「ハーロルト様!」
駆けつけた使用人が小さく震える体を抱き起こした。銃声も、炎も、仲間の叫びも、すべてが脳裏で永遠に再生され続けている。
ハーロルト・ギッター。
この国の英雄。彼の心は、今も戦場の焼け跡に取り残されていた。






