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第一話 願い
春の雨は、合格発表の掲示板を滲ませていた。
ケントは、ただ立ち尽くしていた。
自分の番号がない。それだけで、世界はこんなにも静かになるのかと思った。
彼は「戻す」家系に生まれた。
時を巻き戻す力。けれど親は繰り返し言った。
——絶対に使うな。
——変えた未来は、必ず歪む。
だからこそ、彼は努力した。
力に頼らず、勉強で未来を掴むと決めた。
いい大学へ。いい企業へ。能力なんてなくても幸せに。
けれど、紙切れ一枚でその夢は砕けた。
精神は削れ、部屋は暗くなり、
そして——月島カナとも別れた。
高校一年の春から付き合っていた。
将来、結婚しようと笑い合ったこともある。
「ごめんね、ケント。今のあなた、前を見てない」
彼女の言葉は正しかった。
でも、それでも失いたくなかった。
すべてを失った夜。
ケントは奇妙な男に出会う。
同い年だというのに、二十二歳を名乗る男。
無精髭、よれた服、けれど瞳だけが異様に澄んでいる。
「カリヤだ」
彼は笑った。
「俺はな、誰かの幸せを奪って、別の誰かに渡せる」
冗談だと思った。だが彼は続ける。
「お前の“戻す力”も同じだ。等価交換だよ。時間を動かせば、何かを失う」
「……失う?」
「形は様々だ。記憶か、感情か、命か。歪みってのはな、帳尻合わせだ」
ケントの背中に、冷たい汗が流れる。
「契約しようぜ」
カリヤは言った。
「お前が俺の時間を戻す。その代わり、俺が奪った幸せを分けてやる」
「幸せを……?」
「カナとの未来も、合格通知も、笑える毎日も。悪くないだろ?」
悪魔のような囁きだった。
やめろと、親の声が頭に響く。
歪む未来。取り返しのつかない代償。
だが同時に、カナの笑顔が浮かぶ。
努力してきた日々。無駄にしたくない時間。
——幸せになりたい。
その願いが、理性を押し流した。
「……契約する」
カリヤの目が細くなる。
「成立だ」
世界が、裏返った。
⸻
目を開けると、桜が舞っていた。
高校一年の入学式。
ざわめき、真新しい制服、春の匂い。
心臓が激しく打つ。
——戻った。
だが、違和感がある。
視線の先、体育館の隅。
壁にもたれ、退屈そうに欠伸をする男。
カリヤがいた。
同じ制服を着て。
(……同じ高校?)
カリヤはニヤリと笑う。
「よう、一年生。久しぶりだな」
「どういうことだ……」
「言ったろ? 俺の時間を戻せって」
その瞬間、ケントの胸に鋭い痛みが走る。
何かが抜け落ちた感覚。
思い出せない。
大事だったはずの何かが。
「これが、代償の一部だ」
カリヤは楽しそうに言う。
「お前が戻した時間のズレは、俺が調整する。その代わり、俺は幸せを奪う」
「誰から……?」
「誰かからさ」
体育館の中央で、カナが友達と笑っている。
その笑顔が、ほんの一瞬だけ曇った。
ケントの胸がざわつく。
「やめろ……」
「契約は対等だ。お前も幸せを望んだ」
カリヤは指を鳴らす。
その瞬間、ケントの頭に流れ込む。
——カナと手を繋いで帰る放課後。
——模試の判定A。
——合格通知。
まだ起きていないはずの“幸せ”が、現実味を帯びて胸に満ちる。
だが同時に。
どこかで誰かが、静かに何かを失っている。
歪みは、確実に広がっていた。
放課後。
カナが近づいてくる。
「ねえ、ケント。なんか今日……前と違う?」
彼女は首を傾げる。
未来を知るケントは、次に来る言葉も知っている。
それでも、胸が痛む。
これは、本当に“自分の人生”なのか。
それとも奪った幸福の寄せ集めか。
カリヤが校門で手を振る。
「さあ、始めようぜ。オーバーラバーズ」
「それは何だ」
「幸せを奪い合う恋人たちのことさ」
桜が舞う。
その花びらは、どこか血の色に近かった。
こうして——
契約した二人の、代償の物語が幕を開ける。
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