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第三十二 章 翔太の青
水面を割った瞬間、世界の音が戻ってきた。
風の音。
波の音。
遠くで鳴く鳥の声。
肺いっぱいに空気を吸い込む。
塩の匂いが、胸の奥まで満ちた。
重い。
さっきまで軽かった体が、急に重くなる。
水に預けていた重力が、全部戻ってきたみたいだった。
足を動かす。
フィンが砂を掻く。
一歩。
また一歩。
波が腰を離れて、膝を離れて、やがて足首だけを濡らした。
ゆっくりと海から上がる。
肩のボンベがずしりと背中に食い込む。
レギュレーターを外すと、空気の味が変わった。
息を吸い込む。
澄んだ空気が、するりと身体の奥へ入り込んでいく。
胸の奥まで満たされていくその感覚に、思わず肩の力が抜けた。
今までは、どれだけ息を吸っても
肺の奥まで届かない気がしていた。
でも今は違う。
吸い込んだ空気が、ちゃんと身体に満ちていく。
――ああ、生きてるって。
こんなにも軽かったんだ、と少し笑う。
フィンを外して砂の上に置く。
バックルを外すと、ボンベの重みが腕に落ちた。
がしゃり、と金属が鳴る。
その音が、やけに現実だった。
砂浜を足で踏み締めた感触はなんだか懐かしかった。
波消しブロックの上に座って、海を見ていた。
さっきまで自分がいた場所。
あんなに広かった青が、今はただ静かに揺れている。
波が寄せて、引いて、また寄せてくる。
その音が、胸の奥の呼吸と重なった。
ふと、胸元に手が触れる。
ネックレス。
濡れた鎖が肌に張りつき、冷たい。
指輪を指先で確かめる。
R→S の文字がくっきりと浮かぶ。
同時に、小さな石が、太陽を弾いた。
海とは違う青。
でも、確かに青だった。
ずっと、ここにあった。
そう思った、そのとき。
背中に、温度が触れた。
不意に、腕が回る。
濡れた体ごと、後ろから抱き竦められた。
息が止まる。
俺はこの腕を知っている。
ボンベを外したばかりの背中に、別の重みが重なる。
肩口に落ちる呼吸。
静かな吐息。
振り向かなくても、分かった。
ずっと、知っている温度。
目を閉じる。
胸の奥で、何かがほどける。
ずっと張っていた糸が、切れたみたいに。
「……蓮」
声が、うまく出ない。
情けないくらい震えていた。
腕が、少しだけ強くなる。
逃がさないみたいに。
その優しさが、痛い。
「ごめん」
何に対してなのか、自分でも分からない。
でも、言葉はそれしか出なかった。
怖かった。
青が消えていくことも、
世界から弾き出されていくみたいな感覚も、
全部。
それでも蓮に会いたいと思った。
胸の奥に溜めていたものが、溢れる。
視界が滲む。
ぽたり、と砂に落ちた。
ひとつ。
また、ひとつ。
声が、耳元で落ちる。
とても静かな声。
「……綺麗だよ」
少しだけ、笑う気配
「翔太の青。」
その瞬間。
もう、駄目だった。
声を上げて泣いた。
子どもみたいに。
海の音も、風の音も、全部混ざって、
何も隠さずに泣いた。
腕は、最後まで離れなかった。
泣き止めないまま、呼吸だけが少しずつ整っていく。
潮の匂い。
濡れた砂。
遠くで波が崩れる音。
ゆっくり振り返る。
目の前にあった顔は、思っていたよりも近かった。
困ったみたいに笑っている。
「……来たんだ」
言ったつもりなのに、声が掠れた。
蓮は、肩をすくめた。
「翔太が呼んだから」
蓮の目に、涙が浮かんでいた。
恥ずかしそうに視線を逸らした瞬間、
一筋の涙が頰を伝った。
「……正直、怖かった」
「このまま、どこか行っちゃうんじゃないかって」
拳が、わずかに握られる。
「でも」
小さく笑う。
「何もできなかった」
少し間を置いて、
「それが、一番悔しかった」
その声は、少しだけ悔しそうだった。
「ごめんなさい……」
「導いたのは、翔太だろ?」
「えっ?」
少しだけ笑う。
ポケットからスマホを取り出して、画面を見せた。
そこには、俺の投稿。
海の写真。
そして――
位置情報。
「……」
一瞬、理解できなくて、瞬きをする。
「あのさ」
蓮が小さく笑う。
「位置情報、オンになってた」
頭が真っ白になる。
「……うそ」
「ほんと」
少しだけ肩を震わせて笑っている。
「おっちょこちょい」
言いながら、頬に触れる。
濡れた髪をかきあげる指が、優しい。
眉根を寄せた蓮は、燦々と降り注ぐ太陽に似つかわしくない、ジャケットを羽織っている。
「場違いだよ?」
「いやー実は、愛する人に追い剥ぎに遭いましてね」
蓮が肩をすくめる。
「しばらくして、部屋のドアノブにそっと戻されてたんだ」
「わっ……悪かったよ」
蓮は少しだけ笑った。
「もう二度と置いてかない」
静かに言う。
「そう決めたんだ」
蓮が俺の頰を、親指で優しく撫でる。
ピッタリと背中に抱き付くと、蓮の方へ引き寄せられる。
「蓮濡れちゃう」
「構うもんか」
そう言って、俺の頬に触れた指が少しだけ震えていた。
そのまま、顔が近づく。
唇が触れた。
塩の味がした。
海の味と、
少しだけ涙の味。
離れたあとも、額が触れたままだった。
波の音が、静かに続いている。
俺はもう一度海を見る。
さっきまで潜っていた青。
その隣で、同じ青を映す瞳。
世界が、少しだけ広く見えた。
「ねえ」
蓮が言う。
「うん?」
少しだけ笑う。
「次は、どこ潜る?」
風が吹いた。
青い海が、ゆっくり揺れている。
その青は、もう消えない気がした。
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ユートピアの続きだとは思えないくらい、儚くて美しくて、二人が尊い……