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きなこもち
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#サレ妻
都築七美
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廊下の向こうから、かすかな声が聞こえた。
「ま……」
一花の動きが止まる。
「まま……」
聞き間違えるはずがない。悠真の声だと気づいた瞬間、一花の顔からさっと血の気が引いた。
「悠真!」
寝室を飛び出した途端、熱気と煙が一気に押し寄せてきた。
廊下にはすでに煙が充満し、数メートル先さえ霞んでいる。
一花は咳き込みながら口元を手で覆い、春子と悠真が眠っている部屋へ急いだ。
「悠真! お母さん!」
返事はない。けれど先ほど、確かに悠真の声が聞こえた。
一花は煙の向こうへ目を凝らしながら進み、ようやく二人のいる部屋へ辿り着く。
ドアノブへ手をかけた瞬間、焼けるような熱さに思わず手を離した。
「っ……!」
それでも迷っている時間はない。一花は袖越しにもう一度ドアノブを掴み、力いっぱい扉を開けた。
その瞬間、猛烈な熱気が吹きつけ、一花は顔を庇うように腕を上げる。煙の奥では炎が壁を這い、赤い火の粉が絶え間なく舞っていた。
「お母さん!」
一花は息を呑んだ。部屋の奥では、春子が床に倒れている。
崩れ落ちた太い木材が背中から足にかけて覆いかぶさり、その身体を押さえつけていた。
けれど春子は、自分の身を守ろうとはしていなかった。
その腕の中には小さく丸まった悠真がいて、春子は炎や落下物から孫を庇うように覆いかぶさっていた。
「お母さん!!」
考えるより先に、一花は炎の中へ駆け込んだ。
「……一花」
春子がかすれた声で娘の名を呼ぶ。その顔は煤で汚れ、息をするたび苦しそうに咳き込んでいた。
「今、助けるから!」
一花は春子を押さえつけている木材へ両手をかけ、全身に力を込めて持ち上げようとする。
しかし、びくともしない。熱された木材に触れているだけで両手が焼けるように痛み、煙のせいで涙が止まらなかった。
それでも、一花は手を離さなかった。
「お願い……動いて……!」
歯を食いしばってもう一度力を込めると、木材がわずかに浮いた。
一花は息を詰めたまま、残った力をすべて腕へ集めるように押し上げ続ける。
じりじりと動いた木材は、やがて春子の身体から外れ、床へ大きな音を立てて転がった。
「お母さん!」
一花が春子を抱き起こすと、春子は苦しそうに何度も咳き込んだ。それでも真っ先に、自分の腕の中へ視線を落とす。
「悠真は……?」
「大丈夫! ここにいる!」
一花は春子の腕から悠真を抱き上げた。
悠真は目を閉じたままぐったりとしていたが、胸はかすかに上下している。
春子は震える指先で孫の頬に触れると、ほっとしたように微笑んだ。
「……よかった」
「逃げよう。お母さん、立てる?」
一花は悠真を片腕で抱きかかえながら、もう片方の腕を春子の身体へ回した。
春子は顔を歪めながらどうにか立ち上がったものの、先ほど木材に押しつぶされていた片足には、ほとんど力が入らなかった。
一歩踏み出しただけで身体が大きく傾き、一花は慌ててその身体を支える。
それでも三人で部屋を出る。廊下へ戻ると、さっきよりも煙は濃くなっていた。
天井にまで炎が広がり、家のあちこちから木材の軋む音が聞こえてくる。
一花は悠真を胸へ抱きしめ、春子の身体を支えながら、玄関を目指して一歩ずつ進んだ。
「もう少しだから。お母さん、頑張って」
春子は苦しそうに息をしながら、それでもどうにか足を前へ出していた。
けれど数歩進んだところで、傷めた脚がとうとう支えきれなくなり、その膝が崩れた。
「お母さん!」
一花は慌てて身体を支えた。春子を立たせようと腕を引くが、春子の足はもう言うことをきかなかった。
「立って! もう少しだから!」
春子は苦しげに息を吐きながら、ゆっくりと首を横に振る。
「……ごめんね」
「何言ってるの。三人で逃げるの!」
一花は悠真を抱えたまま、春子を背負おうと身体を屈めた。
けれど煙を吸ったせいでうまく力が入らず、足元までふらついてしまう。
悠真を抱えた状態では、春子まで持ち上げることなどできなかった。
それでも、ここに置いていくという選択だけはどうしてもできない。
「絶対に置いていかないから。だから、お願い……!」
そのとき、家全体が低く軋み、頭上から細かな煤がぱらぱらと落ちてきた。
春子は天井を見上げ、次いで一花の腕の中にいる悠真へ目を向ける。
そして最後に、静かに娘を見つめた。
「一花、お願い」
「嫌」
「悠真を連れて行きなさい」
「嫌だ!」
一花は何度も首を横に振った。熱と煙で滲んでいた視界が、今度は涙でさらに歪んでいく。
「三人で出るの! お母さんも一緒に!」
春子の目にも涙が浮かんでいた。それでも、その表情は不思議なほど穏やかだった。
「お願い。お母さんの……最後のお願い」
「そんなこと言わないで!」
春子は震える手を伸ばし、一花の腕の中で眠る悠真の頭をそっと撫でた。
「悠真を守って」
一花は声を失った。
春子は苦しそうに一度息を吸い、それでも娘から目を逸らさない。
「そして……生きて」
コメント
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ああ……胸がぎゅっとなった。春子さんの「最後のお願い」、あの静かな覚悟が重すぎて言葉が出なかった。一花が「嫌だ」って叫ぶたびに、こっちまで涙が滲んだよ。悠真を守って、生きて——そう言いながら自分は残ろうとするお母さんの強さが、切なくて、尊くて。続きが気になるけど、今はこの一瞬をちゃんと受け止めたい気持ち。素敵な話をありがとうございます🌙