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きなこもち
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#サレ妻
都築七美
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「そして……生きて」
炎の音にかき消されそうなほど弱い声だった。それでも、春子の言葉は一花の胸に深く突き刺さった。
「嫌……」
一花は涙を流しながら何度も首を横に振る。
「そんなの嫌! 三人で逃げるの! お母さんも一緒に――」
そのとき、頭上からミシミシと不気味な音が響いた。家全体が大きく軋み、天井から燃えた木片が落ちてくる。
一花が反射的に悠真を抱きしめると、春子の表情が変わった。
「行きなさい!!」
春子は残された力を振り絞るように、一花の背中を強く押した。
「お母さん……!」
「早く!」
一花はその場から動けなかった。ここで自分が行けば、春子は一人になる。
それが何を意味するのか、分からないはずがない。
けれど腕の中には、ぐったりとした悠真がいる。
小さな胸がかすかに上下しているのを見た瞬間、春子の言葉がもう一度蘇った。
――悠真を守って。そして、生きて。
一花は唇を噛みしめ、涙で滲む春子の顔を目に焼きつけた。
「……絶対、助けに戻るから」
春子は答えなかった。ただ、泣きながら笑っていた。
一花は悠真を強く抱きしめると、後ろ髪を引かれる思いで春子に背を向けた。
一歩進むたび、母を置き去りにしているという罪悪感に胸を引き裂かれそうになる。
それでも立ち止まることはできず、何度も咳き込みながら玄関を目指した。
廊下はすでに炎と煙に覆われ、来たときとはまるで様子が変わっていた。
視界はほとんど利かず、息を吸うたびに喉が焼けるように痛む。それでも一花は悠真を胸に抱えたまま、記憶を頼りに必死で足を進めた。
「悠真……もう少しだからね」
返事はない。一花は腕の中の小さな身体を抱き直し、転びそうになる足をどうにか前へ運ぶ。
やがて煙の向こうに玄関が見えた。あと少しで外へ出られる――そう思った、その時だった。
突然、横から激しい熱風が吹きつけ、視界の端で炎が一気に広がる。
一花は考えるより先に悠真を抱き込むようにして、その小さな身体へ覆いかぶさった。
「――っ!」
焼けつくような熱が左頬を襲った。次いで顎から首、腕へと激痛が走り、一花の喉から押し殺せない悲鳴が漏れる。
皮膚そのものを焼かれているような痛みに足が止まりそうになったが、それでも悠真だけは絶対に離さなかった。
一花は自分の身体を盾にするように悠真を覆い、歯を食いしばって炎の中を進んだ。
痛みで意識が遠のきそうになるたび、腕の中の温もりだけを確かめる。
あと少し。
あと少しだけ――。
ようやく玄関へ辿り着くと、一花は残った力を振り絞って扉を開けた。冷たい外気が流れ込んだ瞬間、そのまま悠真を抱えたまま外へ転がり出る。
「悠真……!」
庭へ倒れ込んだ一花は荒い息を繰り返しながら、自分の身体に走る痛みも忘れて悠真を抱き起こした。
「悠真! お願い、目を開けて……!」
返事はない。腕や足には痛々しい火傷があり、小さな身体はぐったりと力を失っていた。
一花は震える手で悠真を抱き寄せ、恐る恐る口元へ耳を近づける。
ほんのわずかに温かな息が頬へ触れた瞬間、張りつめていたものが切れたように涙が溢れ出した。
「……よかった……」
生きている。その事実に安堵し、悠真を強く抱きしめる。
けれど、ほっとできたのはほんの一瞬だった。
顔を上げた先では自宅が激しい炎に包まれており、その光景を目にした途端、春子を中へ残してきたことが胸に突き刺さる。
「お母さん……!」
まだ中にいる。自分と悠真を逃がすために、たった一人で残ったままだ。
一花は悠真をそっと地面へ横たえると、焼けた身体を引きずるように立ち上がり、ふらつく足で家へ向かおうとした。
「お母さん!!」
その瞬間、横から伸びてきた腕に身体を強く抱き止められる。
「危険です! 戻らないで!」
消防隊員だった。
「離してください! お母さんがまだ中にいるんです!」
一花は必死にもがいた。左頬も首も腕も、動くたびに焼けた皮膚が引きつれ、息が止まりそうなほど痛む。
それでも今は、自分の痛みなどどうでもよかった。
炎の向こうには春子がいる。
それだけしか考えられず、一花は隊員の腕を振りほどこうとしながら、燃え盛る家へ必死に手を伸ばした。
「お願い、助けて……! お母さんがまだ……!」
「中には入れません!」
「嫌! 離して!」
春子を置いていくなんてできない。
ついさっきまで同じ家で笑っていた母が、あの炎の中に一人でいる。
その事実を受け入れられないまま、一花は力の限り身体をよじった。
「お母さぁぁん!!」
その叫びに重なるように、家の奥から不気味な軋みが響いた。
一花が息を呑んだ直後、激しい轟音とともに屋根の一部が崩れ落ち、舞い上がった火の粉が夜空へ散っていく。
炎はさらに大きく燃え上がり、春子がいたはずの場所を赤い光と黒い煙の向こうへ完全に覆い隠した。
「お母さん……?」
さっきまで必死にもがいていた身体から、急に力が抜けた。
目の前で何が起きたのか理解したくないのに、もう春子のもとへ戻れないことだけは分かってしまう。
一花は消防隊員の腕の中で膝から崩れ落ち、燃え続ける家を呆然と見つめた。
「救急隊! こっちです!」
「女性一名、男児一名! どちらも重症です!」
周囲では誰かが叫び、慌ただしく人が行き交っていたが、その声はひどく遠く感じられた。
涙に滲む視界の向こうに、炎の中で悠真を抱きしめていた春子の姿が浮かぶ。
最後に見た母は、自分が死ぬかもしれない状況でも、娘と孫のことだけを案じながら笑っていた。
もう一度だけ、その声を聞きたかった。
「お母さん」と呼べば、いつものように「なあに」と返してほしかった。
――お母さん。
けれど声を出すこともできないまま、一花の意識はゆっくりと暗闇へ沈んでいった。
コメント
1件
うわ……胸が苦しいです。春子の「生きて」という最後の言葉が、もう本当に重くて。一花が悠真を必死に守りながら炎の中を進む姿も、母を置き去りにした罪悪感に引き裂かれそうになる心情も、全部がリアルで涙が出ました。「お母さん」と呼べば「なあに」と返ってほしかった、という回想が特に切なくて……。炎に飲まれる前の春子の泣き笑いが、ずっと心に残っています。