テラーノベル
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昨日の駅での出来事は、偶然。
そう自分に言い聞かせていた。
けれど、バッグの底で眠るあの市松人形に触れるたび、指先から冷たい何かが流れ込んでくるような気がしてならない。
午前10時
オフィスの静寂を切り裂くように、部長の怒号が響いた。
「美月!この資料、数字が全然違うじゃないか! 何度言わせれば気が済むんだ!」
いつものことだ。
隣のデスクの先輩がミスを押し付けてきたせいだと分かっていても、私は頭を下げるしかない。
胃がキリリと痛む。
……その時、デスクの下に置いていたバッグが、ガタッと小さく揺れた。
(……また、熱い)
人形が、私の怒りやストレスを吸い取っているような感覚。
直後、部長が私に向かって一歩踏み出した瞬間だった。
「わっ……!」
部長の足が、何もない場所で不自然に滑った。
派手な音を立てて仰向けに転倒する部長。
デスクの角に頭をぶつけ、手に持っていたコーヒーが
さっき私を嘲笑っていた先輩の真っ白なブラウスにぶちまけられた。
「ああっ! 最悪!」
「部長! 大丈夫ですか!?」
オフィスが騒然となる。
私は一人、椅子に座ったまま、その光景を眺めていた。
不思議と、心は凪いでいた。さっきまでの胃の痛みも、どこかへ消えている。
(……やっぱり、そうだ)
私が不快な思いをすると、その分、誰かに「不幸」が配当される。
本来なら私が受けるはずだった理不尽な怒りも、胃の痛みも、全部あの二人が肩代わりしてくれた。
帰り際、給湯室で例の先輩が泣きながらブラウスを洗っているのが見えた。
「死ねばいいのに」
昨日までの私なら、心の中で呟くだけで終わっていた言葉。
でも今は違う。
私はバッグの中の人形の頭を、優しく指先で撫でた。
「……ありがとう。次も、よろしくね」
鏡に映った自分の顔が、自分でも驚くほど、穏やかで美しく見えた。
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えれめんたる