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#BL
#ヒューマンドラマ
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409
夜。
縫季は自室の灯りを落としきれずにいた。
卓の上には木簡が散乱している。昼の裏手で見たもの、掴まれた手首の赤、刃の光、そして――帝辛の声。
「この者は、私の供だ」
言葉は短かった。短いのに、胸の奥に残り続ける。助かった。守られた。それだけで済めばいいのに、余計な熱までついてきた。
縫季は、紫紅の小瓶を見た。蓋は閉じている。なのに甘さが、薄い膜みたいに鼻の奥へ残っている。
(……残り香か)
清朗の香だ、と決めつけたかった。そうすれば、責任を外へ押しやれる。自分の乱れを、香のせいにできる。
だが、指先の震えは、香だけのものじゃない。
縫季は筆を取った。墨を落とす。
――医官府裏。帳に残らない薬材集積。――名目は廃棄。実際は保留。――清朗の印が使われている。
書ける。書けるはずだ。
なのに、筆先が止まる。
昼の場面が、また割り込む。刃の光が、あの一言の後、すっと引いた瞬間。人の命が、言葉ひとつで動く世界。
(……やめろ)
縫季は息を吸った。調整員の呼吸。深く、ゆっくり。――だが、胸の奥の熱は沈まない。
熱に名前をつけたら、線が歪む。つけない。つけないまま、線だけを引く。
縫季は木簡を束ね、上から押さえた。押さえた指が、少しだけ力む。
(集中しろ)
そのとき。
戸が、控えめに鳴った。
「縫季」
声で分かる。帝辛だ。
縫季の背が固まった。こんな夜に、なぜ。昼のことが頭をよぎる。護衛の目。王太子の立場。自分の立ち位置。
「……入ってください」
戸が開き、灯りが揺れた。帝辛が一歩入ってくる。夜の衣。だが姿勢は崩れていない。王太子のまま、静かに息をしている。
「起きていたか」
「……はい」
帝辛の視線が卓に落ちる。木簡の乱れ。墨の滲み。筆が止まった痕。見られたくないのは内容ではなく、自分の乱れだと気づいて、縫季はさらに喉が乾いた。
「昼の件だ」
帝辛は、座らない。距離を保ったまま言う。
「医官府の裏手にいた。あそこは、表の仕事ではない」
縫季は返事が遅れた。遅れた分だけ、言葉が余計に重くなる。
「……確認が必要でした」
帝辛は、ゆっくり息を吐く。
「必要と判断したのは、お前か」
「はい」
「なら聞く。あそこに行く必要は、今もあるか」
縫季は、木簡を見た。線が途切れている。途切れた線の向こうに、清朗の笑顔がある。笑顔の奥に、紫紅の甘さがある。
(……ある)
必要だ。ただし、必要の形が、都合よく変形している。
「……あります」
縫季は短く答えた。
帝辛は、縫季の手首に視線を落とした。昼に掴まれた痕が、まだ薄く残っている。
「痛むか」
「……いえ」
帝辛の指先が伸びかけ、止まる。触れない。触れさせない。その間が、妙に胸を締めつける。
その瞬間、縫季の掌が、わずかに冷えた。
(……線が、反応している)
「帝辛が縫季の傷を気にかけた」という記録。小さい。正史に比べれば、砂粒ほどの重さしかない。
だが、積み重なる。
昨日、縫季の足取りを覚えていた。今日、夜に部屋を訪ねた。傷に指を伸ばしかけた。
一つ一つは細い。細い線が、束になりかけている。
縫季は掌を、衣の陰でそっと握りしめた。
帝辛はそのまま言葉を変えた。
「……お前は、頭は切れる」
縫季は黙る。
「だが、刃の前に出ると急に雑になる」
昼と同じ言い方。だが今夜の声には、棘がない。笑いにもしていない。事実を置いているだけだ。
「自覚はあるか」
縫季は、少しだけ口を開き――閉じた。言える自覚はある。言えない理由もある。
「……あります」
帝辛は、ほんのわずかに口元を緩めた。それが茶化しではなく、確認の終わりの印に見えた。
「なら次からは、一人で動くな」
命令形。短く、逃げ道がない。
縫季の胸が、ひとつ鳴った。
(拘束だ)
優しさじゃない。王太子が、臣下の線を繋ぎとめる言葉だ。
だからこそ、余計に逃げられない。
「……はい」
帝辛は卓の木簡に目を戻した。
「その動きの先は、清朗か」
縫季の背に冷たいものが走った。帝辛は名前を出しただけなのに、胸の奥がざわつく。
「……はい」
帝辛は眉を寄せる。その表情に、怒りはない。心配がある。それが痛い。
「清朗は、私の前ではよく笑う」
縫季は、黙って聞いた。
「笑うが……休んでいない。目の奥が、ずっと起きている」
縫季の喉が詰まる。清朗は殿下のために笑っている。笑いが増えた分だけ、侵食が進んでいる。
縫季は、言葉を選んだ。
「善意が強すぎます」
帝辛が目を細める。
「善意が……強すぎる?」
「止まれない種類の善意です」
コメント
1件
第28話、読み終わりました。夜の縫季の部屋の静けさと、胸の奥のざわつきの対比がすごく印象的でした。特に「熱に名前をつけたら、線が歪む」って内省の仕方、彼女らしいなと。帝辛が「一人で動くな」と命令するときの、優しさと拘束の両義性がたまらない。善意が強すぎる清朗の存在も含めて、この三人の距離感がどう変わっていくのか、すごく気になります。一つの動作や台詞の重みが細かく計算されていて、読んでいてぞくぞくしました。