宴の席では、皆、春香の姿に釘付けになっている。
奏でる琴の音《ね》に、耳を傾ける訳でもなく、男達の視線は、春香の白いうなじに、弦を弾く白魚のような指先に、向けられていた。
そして、各々、あの纏う衣の下には、どのような果実が隠れているのだろうかと、酒に酔った勢いからか、南原一の妓生《キーセン》を前にしてか、下衆な思いを馳せるのだった。
と、すっと、末席の障子が開き、そろそろお開きを、と、宴の終わりを催促する声がする。
同時に、春香の演奏も終わった。
ほぉ、と、感嘆の声と共に、拍手を受けて、春香は、深々と礼をすると、すっくと立ち上がり、主賓の元へ向かった。
「それでは、本日は、これで。つたない芸でございました」
背筋を伸ばし、座り、そして、謝辞を述べ、春香は、仕舞いつけを行った。
「これ、春香や、まだ、まだ、楽しませてもらわねば」
わかっているだろうと、ばかりの、主賓の隣で、ご機嫌取りをするこの屋敷の主、少しばかり名前の通った商人は、薄ら笑いながら、さあさあ、と、春香を急かしにかかる。
「……ですから、今宵は、ここまでで。うちの春香の、お役目は、終わりました」
外から、再び男の声がする。
「はっ、何を言うか。付き添いの分際で、この場を仕切るつもりか?!」
商人の顔つきが、変わった。
廊下にいるであろう、妓夫──黄良へ、向かって、嫌みたらしく、お前は、はよう帰れ。女主人の戻りをおとなしく待っておれば良い。 と言い、なあ、春香や。と、意味深な視線を、春香に送って来た。
「官吏様、どうも、田舎者は、頭が鈍く、困ります」
この商人の一言に、宴席には、大きな笑い声が起こった。
「……申し訳ございませんが……」
続ける、黄良に、商人は、うるさい男だと怒りをぶつけた。
「……うるさいのは、あなた様。せっかくの宴席が、台無しですわ。終わりを告げて、静かに引き上げようとしているこちらを、怒鳴りつけるとは、最後の最後に、田舎の宴席と、示しておしまいで、ねぇ、官吏様?都では、このようなことは、ございませんよねぇ。まったく、恥をかかされて、官吏様も、散々……」
ふふふ、と、笑いながら、怒り心頭の商人を抑え込むかのように、 春香は、主賓へ無理矢理酌をした。
杯を差しだしながらも、主賓は、渋い顔をしている。
「残念ですが、この、春香めは、妓籍に名を連ねる妓生《キーセン》でございます。それが、なにやら、うちの妓夫の手違いで、商人様の御屋敷へ、お邪魔いたした次第。これが、官庁へ、知れれば、互いにお咎めを受けることでしょうが、あれほど、拍手を頂いて、その様な野暮な事を言えましょうか。とはいえ、官吏様、規則は、規則。今日のところは、お互い様で、春香をお放しくださいませんでしょうか?」
流れる様に異を唱える春香へ、皆、反論の言葉を投げ掛ける事が出来ないでいる。
官庁などと、持ち出されては、なおさら、自身の分の悪さを突きつけられる状態で、皆、押し黙った。
当の、語りかけられている、主賓すら、怒りを抑えるのに必死なようで、酌を受けた杯を黙って口に運んでいるが、その手は、小刻みに震えている。
「では、これにて」
深々と礼をすると、春香は、何人たりとも、邪魔立ては出来ないとばかりに、胸を張り、しずしずと部屋を出て行った。
その、立ち姿といい、歩む姿といい、侮辱されたとはいえ、つい、目で追ってしまうほど、見惚れるものだった。
そして、上座では、いつの間に、部屋へ入って来たのか、黄良が、琴を仕舞い、抱え込み、こちらも部屋を出て行った。
「さあ、帰るよ、黄良」
「はあ、まったく、お前には、太刀打ちできねぇなあ」
「まあね、ヤボな男に、あれこれ言われるより、美人に言われる方が、男としちゃあ、嬉しいだろ?」
はっ、よく言うぜ。と、黄良は、廊下の先を行く春香を呆れ見た。
無事に店に戻って来た春香一行は、裏庭へ直行した。
篭から降りた春香が、童子へ馬の準備を言いつける。
篭かき達は、黙々と上げ底になっている篭から、盗んできた品物を取り出し、並べていた。
「へえー、書き付け……黄良、いいもの見つけたじゃないか……」
ズラリと並ぶ、戦利品に目を細める春香だったが、つと、顔を曇らせた。
「……さて、どこで、さばくか……」
「ああ、足が付きやすいのは、わかっていたがな、どうやら、へそ食っているもののようだ。奴らも、下手に表沙汰にはしまいて。とはいえ……物が物だけになぁー、俺も、迷ったんだ」
黄良は、盗んできたものを手にとって、仕訳のような事をしながら春香に言った。
「また、蔚山《うるさん》の姐さんに、世話になるか……」
「だなあ……」
一度、南端、釜山《ぶさん》の街へ出て、そこから北上し、蔚山の街へ着く。
そこに、南方では少し名前の通った女商人がいた。
書き付けなど、大きな金になるが、足が付きやすいものは、その女商人経由で換金していた。
春香の立場を理解してくれ、便宜を図ってくれるからだ。
同じ女通し、身を立てるのに何かと苦労するということも理由だろうが、どことなく、馬が合い、気心知れた仲になっていた、というのが大きかった。
「すまないね、今回は、少し遠出してもらうよ」
南原から釜山まで、街道に沿って余日──。そして、そこから、蔚山まで、さらに、一日。馬で行けば、その程度時間がかかる。
もちろん、道なき道をかき分けて、直接、蔚山へ入るという手もあるが危険すぎた。
道のりの悪さもだが、何が出てくるか分からない。
確実に、そして、怪しまれずに、事をなすには、逆に堂々と街道を使って、目眩《めくらま》しするのが一番なのだが、それでも、盗まれた、と、勘づいた相手の追っ手がやってくるかもしれない。
どうあれ、品物のさばき役は、危険と隣り合わせだった。
春香に声をかけられ、篭かきの男達は頷いた。
彼らが、いつも戦利品をさばきに走る。
黄良は、仕分した物を各々に荷造りし、いかにも、商品のように見せかけていく。
「こいつは、誰が行く?」
手に、書き付けを持ち、黄良は、問うた。
「へい」
と、返事をし、男が前へ進み出る。
「おう、お前なら、あちらの姐さんとも面識ある。すまんが、頼むぜ」
ついでに、こいつを土産にしろ。と、木箱を男へ渡した。
なかには、一目で上質とわかる、人参《やくそう》が入っていた。
男は受けとると、器用に底板を外し、書き付けを隠して、薬草売りの顔になる。
「商標札と身分証だ。まっ、いつものように、偽物だがな。何かあった時は、そいつで誤魔化せ」
小道具を黄良が差し出した。
「さてと、あとは、馬だ。童子、なにやってんだ、今から行くと、夜のうちに、南原を抜け出せるのに、ぐずぐずしやがって……」
馬屋から、うわっー、と、童子の声があがった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!