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「あきら?」
呼ばれて振り返ると、千尋《ちひろ》が手を振っていた。
「仕事中?」
「すぐそこの小学校に行ってたの。これから戻るとこ。千尋は?」
「打ち合わせの帰り。ランチする時間、ある?」
「あるある!」
千尋と会うのは三か月くらい振り。その時も仕事帰りにバッタリ会って、一緒に飲んだ。
私たちはすぐ近くの洋食屋に入り、私はビーフシチューのセット、千尋はシーフードグラタンのセットを注文した。
「ちょうど連絡しようと思ってたのよ。OLCの飲み会、再来週の予定を来週にしたいんだけど大丈夫?」
「今回は千尋が幹事だっけ?」
「そ。私と陸《りく》。次はあきらの番だからね?」
次回の幹事はいつも、参加者の中から決める。私は前回の飲み会には行かなかったし、前々回の幹事もしていないから、必然的に次回の幹事。
次は忘年会になりそうだな、と思った。
「で? 来週の土曜は大丈夫?」
「ん。大丈夫」
このところ、週末は龍也と一緒に引きこもるばかりだった。
「良かった。陸が急な仕事で休みが変更になっちゃったらしくてさ」
「支配人も大変だ」
陸さんはホテルの支配人をしていて、二年前に同じホテルでパティシエをしている奥さんと結婚した。子供が出来たからと式も上げずに慌ただしく結婚したのだけれど、籍を入れてひと月ほどで流産してしまった。
「千尋は? 相変わらず、忙しいの?」
「うん、まあね」
千尋は私より一歳年上で、不動産会社でインテリアデザイナーをしている。いつもパンツスーツに高めのヒールで、見るからにバリバリのキャリアウーマン。
「男の方も……相変わらず?」
「……うん」と、千尋は少し躊躇いがちに頷いた。
「あの、名前が似てるって男性《ひと》? 長いね」
「うん。けど、そろそろ終わりかな」
「そうなの?」
「これ以上は、ね。さすがに離れがたくなりそうで」
そう言った千尋は、珍しく弱気に見えた。
千尋は不倫をしている。もう、ずっと、不倫しかしていない。
それを知っているのは、OLCの中では私だけ。
先に、飲み物とサラダが運ばれてきた。二人ともアイスコーヒーをブラックのまま、一口飲む。
「離婚、しないの?」
「さあ。聞いたことないけど……」
「けど?」
「『離婚したら一緒に暮らせるか?』って聞かれた」と、千尋が小声で言った。
少し、恥ずかしそうに。
「千尋の事、好きなんだ」
「多分……」
「千尋は?」
「やめてよ。私は――」
「わかってるよ」
千尋は幸せを拒んでいる。
自分には、幸せになる資格はない、と思っている。
だから、幸せには程遠い『悪女』を演じている。
一人でも生きていける、強い女であろうとしている。
「あきらは? 飲み会に来るってことは、あきらにも龍也にも恋人がいないってこと?」
千尋は、私と龍也の関係を知っている。千尋が知っていることは、龍也にも言っていない。
「うん」
「龍也、しばらく彼女いないよね」
半年近く、いないはず。
「合コンとかには行ってるみたいだけどね」
「龍也と落ち着いちゃえば?」
「それこそやめてよ」
「どうして? 龍也に拒否られたこと、あるの?」と言いながら、千尋はレタスを口に運ぶ。
「だから、私たちはそんな関係じゃないって。気が合って、都合がいいだけ」と言いながら、私もレタスを噛んだ。
「龍也ってそんなに器用なタイプだっけ?」
「同時進行してるわけじゃないし、楽じゃない? 恋愛は若い子として、隙間を私で埋めるだけでしょ」
「本気で思ってる?」と、千尋がフォークの先を私に向けて、ジロリと睨んだ。
「あきらとそういう関係になってから、龍也が誰と付き合っても長続きしないの、気づいてないわけじゃないでしょ」
「私のせいじゃないわよ」
「そう? あきらがフリーの時、龍也に彼女がいること、あったっけ?」
言葉に詰まった時、店員が料理を運んできた。私の前にビーフシチューとパン、千尋の前にシーフードグラタンとパンを置く。
ごゆっくりお召し上がりください、と一礼して、会計伝票をテーブルに置くと、店員は足早に去って行った。
十二時を過ぎて、店内が混みあって来たのだ。
私はビーフシチューをスプーンですくい、息を吹きかけた。
「龍也が彼女と長続きしないの、私のせいかな」
「龍也自身が自覚してるかは、わからないけどね」
「私ももう……潮時かな」と言って、スプーンを口に入れた。
濃厚で、美味しい。けれど、龍也が朝から煮込んでくれるビーフシチューの方が、好きだ。
「龍也が納得する?」
「納得も何も……」
「龍也、泣かさないでよね」
「どうして龍也が泣くの!?」
「じゃあ、あきらが泣くの?」
私には、泣く資格なんてない。
こんな不毛な関係に巻き込んだ私に、龍也との別れを嘆く資格なんて、ない。
「仕事、頑張ろ」
千尋が呟いた。
「うん」
私は、笑って頷いた。