テラーノベル
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濃紺の紬に、角帯。
後ろへ撫でつけた黒髪から、一筋だけ、前髪が額に落ちている。こけた頬は、まだ戻っていなかった。両の手には、黒い革の手袋の代わりに、白い晒しが巻かれていた。
赤坂の御分家が、腰を浮かせた。麻布の御分家は、口を半分開けたまま固まった。『東都日報』の記者の鉛筆が、手から落ちた。
冬馬様は、誰のほうも見なかった。
下座の、灰色の背広だけを見ていた。
「本所の川で、父上と、船の底にいた」
冬馬様は、静かに言った。
「死んではいない。……すまないな、宗介」
真柴さんは、動かなかった。
長いあいだ、冬馬様の顔を見上げていた。
それから、ふいに、畳の上の書状と、私の並べた頁を、両手でまとめて掴んだ。
膝で、広間の中ほどの火鉢へ。地震のあと、水を沸かすために置かれた火鉢だった。鉄瓶の下で、炭が赤くおこっていた。
紙の端が、炭の上へ差し出された。
その手首を、白い晒しの手が掴んだ。
冬馬様の顔が、痛みに歪んだ。それでも、指は緩まなかった。
「離せ、宗介」
紙の角が、ちりちりと焦げた。真柴さんの指が、一本ずつ、ほどけていった。
二枚の紙が、畳に落ちた。私は、這い寄って、それを胸に抱えた。書状の角が黒く縮れていた。けれど、左下の欠けは、残っていた。
真柴さんの膝が、崩れた。
畳に両手をつき、うつむいた。銀縁の眼鏡が、ずれていた。
やがて、真柴さんは顔を上げた。床の間の脇の、肖像画を見ていた。
「私も、この家の子でございました」
いつもの、丁寧な声だった。けれど、どこかが、壊れていた。
「二十の春に、母に手を引かれて、勝手口から入りました。父上は、一度も、私をお見になりませんでした。書生として、廊下の端から、お姿を拝むだけ」
指先が、畳の目をなぞった。
「若様に、いろはをお教えしたのは、私です。止めは、ぐっと押さえるのです、若様。払いは、迷わずに。……猩紅熱の三晩、お枕元についていたのも、横浜の桟橋で、最後まで帽子を振っていたのも」
冬馬様の、晒しの手が、震えていた。
「大正六年の春、父上が亡くなられて、遺言状が開かれました。家督は長男冬馬に。それだけでございました。私の名は、一行も、ございませんでした」
真柴さんは、小さく笑った。
「ですから、書いて差し上げたのです。父上が、お書きになるべきだった一行を。母の書付を手本に、毎晩、御名を練習して。紙は、明治の紋のものでなければなりませんでしたから、神田の、腕のいい店に」
「小夜子様は」
私の声は、自分のものではないようだった。
「家令室の文箱で、練習の紙を、御覧になりました。そして、私に、こう仰いました。旦那様に、申し上げます、と」
擦り出しの、途切れた一行。旦那様に。
「それに、お子を身籠っておいででした。お子が生まれれば、私の一行は、要らなくなる」
葡萄酒の封を、家令室で切った。宇佐美先生へ、冬馬様の字をなぞった手紙を書いた。帳場の控えを燃やすために、神田の活版所の紙置き場に火をつけた。
「御父上を、焼くつもりは、ございませんでした」
真柴さんは、私を見なかった。
私は、膝の上で、拳を握った。
父は、あの火事で胸と手を傷め、店を失い、借金を負った。私は、女学校をやめた。その借金の証文を買い取られて、この家に来た。
つもりがなかったと言われて、許せることではなかった。
けれど、ここで声を荒げれば、この人の話は、そこで終わる。千鶴さんの最後の夜のことを、聞けなくなる。
私は、拳を、ほどかなかった。そのまま、黙って聞いた。
「千鶴様は、罫の欠けにお気づきになった。お電話を取ったのが、私でございました。明日いらしたら、旦那様にお見せしたいものがある、と。……御前のパナマ帽と、ステッキをお借りしました」
「あの晩は、自分の部屋の明かりを消して、勝手口から出ました。誰も、襖を開けて確かめはいたしませんでした。翌日、朝一番の汽車で参りましたと申し上げたのは、二度目の鎌倉でございます」
東屋で、何があったのか。それ以上は、言わなかった。
「千鶴様も、聡いお方でございました」
閉じこめられた洋館の、渡り廊下の扉越しに、一度だけ聞いた声と、同じ響きだった。
「宇佐美先生は、喋ろうとなさった。お見えになる刻限は、前の日に、御前から伺っておりました。タキは、思い出してしまった。あの晩、二階の物置から、封の欠片を握って降りてくるところを、踊り場で。……隆之様には、書生部屋の反古を漁られては困りましたので、大阪へ」
最後に、真柴さんは、私を見た。
「奥様の目だけは、どうにもなりませんでした」
広間の入り口で、ふささんが、崩れるように座りこんだ。
「宗介」
細い声が、震えていた。
「あたしは、名前なんか、要らなかった。お墓に刻んでもらえなくたって、よかった。おまえが、元気で、手習いが好きで、それで」
あとは、言葉にならなかった。ふささんは、文庫を抱いたまま、声を上げて泣いた。
真柴さんの肩が、初めて、大きく揺れた。
冬馬様が、真柴さんの前に、膝をついた。
同じ高さで、二人の目が合った。
肖像画の下で、二人とも、左の眉の上に、指を当てかけていた。冬馬様が先に気づいて、手を下ろした。
「兄上」
真柴さんの目が、見開かれた。
「あなたが望めば、私は、弟として、あなたの隣にいた。……一言、言ってくれれば、それでよかった」
真柴さんは、答えなかった。
長い沈黙のあとで、眼鏡を外し、畳の上に、きちんと置いた。
「……若様」
掠れた声だった。
「止めは、ぐっと押さえるのです。払いは、迷わずに」
それきり、口を閉じた。
鬼塚警部補が、真柴さんの腕を取った。
真柴さんは、逆らわなかった。立ち上がり、背広の皺を伸ばし、上座へ一礼して、広間を出ていった。一度も、振り返らなかった。
高階審議官が、焦げた書状を手に取った。
「この書状は、偽造と認める。久遠寺家の家督は、当主冬馬に変わりない。御両家の件は、宗秩寮にて、改めて糾す」
赤坂の御分家は、畳に手をついたまま、顔を上げなかった。
それから、審議官は、私のほうへ向き直った。
「侯爵夫人。紙を読む目を、拝見した。宗秩寮の記録には、そのように書いておく」
審議官は、謹厳な顔のまま、ほんのわずかに頭を下げた。
大奥様が、扇子を膝に置いた。そして、三十年見上げなかった床の間の脇の肖像画を、初めて、まっすぐに見上げた。
長いこと見ていた。それから、目を伏せて、担架の上のタキさんの手を取った。
タキさんは、目を閉じていた。唇の端が、かすかに緩んでいた。
*
その夜、洋館の二階の、私の部屋。
北の壁が崩れた洋館も、南側の二階だけは残っていた。窓の外で、庭の避難民の焚き火が、ちらちらと揺れていた。
冬馬様の手の晒しに、赤いものが滲んでいた。火鉢の上で、真柴さんの手首を掴んだときに、火傷がまた破れたのだ。
私は、晒しをほどき、新しい晒しに巻き直した。冬馬様は、黙って、されるままになっていた。
「痛みますか」
「君が巻くと、痛まない」
「嘘です」
「……少しだけ、痛む」
冬馬様が、晒しの手で、千鶴さんの封筒を差し出した。
「君が、読んでくれ」
中には、便箋が一枚と、旧い紋の罫紙が一枚。
旦那様。この紙の左下の欠けを、神田の志摩活版所の、栞という子に見せてください。あの子なら、一目でわかります。わかったら、あの子を、どうか、巻きこまないで。
行の終わりが、右へ逃げていた。
冬馬様は、目を閉じた。
「……約束は、半分しか守れなかった」
「いいえ」
私は、帯の間から、もう一通の封筒を出した。表に、冬馬様の字。妻栞と離縁致し候。
部屋の隅の火鉢に、それをくべた。
紙が、端から、ゆっくりと黒く丸まっていった。
「私が、自分で巻きこまれに来たんです」
冬馬様が、私の前に膝をついた。
晒しの手で、私の右手を取った。中指の、消えないインクの染みの上に、親指を置いた。
「栞」
低い声だった。
「三人目の妻ではなく、ただ一人の妻として。……もう一度、私に嫁いでくれるか」
返事をしようとして、声が出なかった。
私は、うなずいた。何度も。
冬馬様は、私の帯の間から、真鍮の小さな鍵を抜いた。二つの部屋のあいだの、あの扉の鍵だった。
それを、火鉢の脇の小卓に、そっと置いた。
「この鍵は、もう、掛けなくていい」
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#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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コメント
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真柴さんの告白、胸が締め付けられました。「私も、この家の子でございました」って言葉が、ずしんと来て。ずっと影で生きて、誰にも認められなかった人が、最後に自分の正体を明かす場面、すごく切なかったです。冬馬様が「兄上」って呼んだ瞬間、もうダメでした……。ふささんが泣き崩れるところも、小夜子さんが離縁状を火にくべたところも、全部が静かに、でも確かに心に残りました。鍵をもう掛けなくていい、というラスト、本当に素敵です🌙