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人を驚かせることを歓びとする魔性のように厨房から飛び出してきたベルニージュは、仰け反るグリュエーの手を取り、路地を駆け戻る。
「どうしたの? 魔導書は見つかったの?」というグリュエーの問いに、知られざるべき秘密を明かすように手の中の封印を見せて応える。「それなら良かったけど。そんなに急いでどこ行くの?」
そう言われてベルニージュは立ち止まる。別にどこかに行きたかったわけではない。暑くてむさ苦しい厨房から逃げたかっただけだ。
女になったというラーガの言葉、元々は男だったという示唆を聞いて、気が動転した、わけではない、とベルニージュは自分に言い聞かせる。
「皆のところに戻ろう」そう言って、元護女の小さな手を放して来た道をたどる。
大通りへ出ようという筋に入ったところで、立ちはだかる者が三人いた。銀を溶かしたような髪に瑞々しい胡桃色の肌の女が翠玉の双眸でベルニージュを睨み上げている。飾り気のない黒衣に、零れ落ちそうなほど宝石を盛りつけられた護拳付の湾刀をさげていた。屍使いにしてその一族の長、フシュネアルテ、そしてその妹イシュロッテだ。見た目はよく似ているが妹の方が背が高い。そして盗賊王バダロットの姉だったという屍、二号だ。
今や崩壊した麺麭屋の行列に並んでいた時には見かけなかったが、今なおラーガと屍使いたちは行動を共にしているということだ。
「赤目、殿下はどちらに?」と姉のフシュネアルテに問い質される。
「まだ厨房で麺麭を食べてるんじゃないかな」
屍使いの女はその言葉を疑っているのか、赤い髪の魔法使いの表情をしげしげと見つめている。イシュロッテが姉に何事かを耳打ちする。ベルニージュは何か恥ずかしい気分になり、罪人のように目を反らす。
「こんなことになるなんてね。もっと、気を付けるべきだった」とフシュネアルテが自身をなじるように呟く。その意味するところを理解できないベルニージュの鼻先を屍使いの一族の長は指さす。「あんたにも、誰にも負けるつもりはないわ!」
「……えっと、何の話?」答えを求めるようにグリュエーの顔を窺うが同じく疑問の表情を浮かべている。
「ベル!」と、そこへ息せき切って路地に飛び込んで来たのはユカリだ。「気配はもう一つあるよ!」
ベルニージュの背後を、裏路地の先を指さしながらそう言った直後にユカリは、しまった、という顔をする。屍使いの姉妹に気づいたのだ。
屍使いの姉妹とその屍がベルニージュたちの脇を抜け、ユカリの指さした路地を駆け出す。ベルニージュたちも釣られて追いかける。さっきのフシュネアルテの宣戦布告は魔導書の奪い合いについてだったのだ、とベルニージュは解釈する。
「魔法少女に手伝ってもらうのは不公平!」と先を行くフシュネアルテの叫びが解釈を肯定する。
「ユカリが言わなきゃあんただって分からなかったでしょ!」と後を追うベルニージュが叫び返す。
不公平だろうとずるかろうと手に入れたもの勝ちだ。いずれにせよ、ワタシはベルニージュだ。たとえ天や星々が相手でも、それが児戯めいた争いであっても、負けることなどあってはならない。ベルニージュの内で魂が燃え上がる。
ふとベルニージュは気づく。今向かった先にいる魔導書が魔法少女狩猟団の一員ならば彼らの目的はユカリの抹殺なのだからわざわざ出向く必要もない。何よりユカリはもっと慎重にならなくてはならないはずだ、と。それに、フシュネアルテたちを追っているだけの自分にもまたベルニージュは気づく。ユカリの他には誰も魔導書の位置を知る手段など持っていないはずだ。
「こっちでいいの? ユカリ」ベルニージュが振り返ると、ユカリとグリュエーが何も言わずに横道へと入っていくところだった。屍使いの屍よりも呆けた表情を浮かべている。「ユカリ!? グリュエー!? どこ行くの!?」
すぐに追いかけようと一歩を踏み出した時、失敗に気づく。秋の実りを全て集めたような甘やかな香りが鼻孔を撫で、瞬間、体の自由が失われる。二人はこれに捕まったのだ。
「どうしたの? 赤目。二人は?」フシュネアルテたちが駆け戻って来て、途端に体の自由が取り戻される。ベルニージュは二人と一体を押し戻すように両腕を広げて後ろに五歩下がった。
「戻って。臭いが契機の魔術だ。体の自由を奪われる」
「何故それに気づけて、尚且つ体の自由を失っていないのですか?」とイシュロッテに頭の上から問いかけられる。
「今考えてるところ」と答える。
一瞬だが魔法にかかったのは間違いない。今は魔法にかけられない状態であることも間違いない。違いは屍使いたちとの接触だ。
ベルニージュは姉妹と二号の方を向いて人懐っこい犬のように匂いを嗅ぐ。
「な、な、何!? 臭いって言うの!?」
フシュネアルテが強く抗議しつつイシュロッテの背後へと逃げる。今になって、前に会った時と違ってずっとフシュネアルが前に出てきていたことにベルニージュは気づいた。
「二人はそうでもないね。二号の死臭で中和されたのかもしれない」とベルニージュは端的に推測を述べる。「死臭を増幅させる魔術はある?」
「そんなのあるわけないでしょ! 何の意味があるっていうのよ!」とフシュネアルテは憤る。「というか臭いを掻き消す魔術があるか聞きなさいよ」
「あるの?」
「あったら香嚢なんて携帯してない!」
フシュネアルテは胸元に吊り下げた陶器の球体を見せつける。
複雑な配色の施された鈴のような陶器の球からベルニージュの好きな白檀の香りが漂っていた。
「ではこれは私が預かっておきましょう、あね様」イシュロッテはフシュネアルテの香嚢を取り上げる。「そして二号に付かず離れず追いかけてください」
姉は少しだけ抵抗したが妹は有無を言わさなかった。
屍と腕を組むのは初めてだ。化粧のおかげで見た目は生者と大きく変わらないが、その肌の冷たさと固さに死の気配を感じる。二号を間に挟んでベルニージュとフシュネアルテはユカリとグリュエーを追いかけた。
さらにか細く曲がりくねった蛇の寝床のような路地を横並びで進むのは骨が折れた。かといって縦列でもやはり歩きにくいだろう。
しかししばらくして二人の少女の背中を見つける。二人の背丈は林の木々のように不揃いで、二人の歩様は夢の中のように不確かだ。
「どうするの? 二人にも臭いを嗅がせる?」とフシュネアルテ。
「ううん。今抑えればこれを仕掛けてる魔術師に警戒される。ユカリたちには悪いけど相手の姿を見つけるまでは待ってもらう」
「囮ね」
もちろん二人の仲間を危険にさらすつもりはない。魔導書の魔性を見つければ焼き払えばいい。やり口が焚書官のそれでベルニージュは少しだけ気が引けたが、人形であれ土塊であれ何に封印を貼っていようが確かに魔導書だけが焼け跡に残るはずだ。
ふらつくユカリとグリュエーの危なっかしい足取りを追った先、狭苦しい十字路の交点に、背筋の伸びた艶めく黒髪の、皴を除けば若々しく見える老女が一人立ち尽くしていた。
「来たよ、魔法少女」老女はそう言うとその細い体を膨らませて、肉体を変身させる。
泥沼のようにどす黒い体毛に覆われた隆々とした肉体に、長く伸びた口吻からは粘つく涎が垂れ、黄色がかった鋭い牙が並び、血走った両眼が爛々と輝いている。ユカリよりも二回りも大きい、まるで二足で歩く狼のようだが、さらにその背中には背中合わせの女が融合していた。そちらは見た目には若い女だが右手に秤を、左手に硝子瓶を握っている。
「これであたしたち自由だね? 嗅ぐ者!」
怪物のその言葉が、魔術を放つ直前のベルニージュを躊躇わせた。人間に貼られている可能性はベルニージュも考えていた。意思のある魔導書だ。命令に従うと言っても、魔術に卓越した僧兵に扱わせた方が効果的な場合もあるだろう。いずれにせよ、ユカリを殺そうとする僧兵を殺すのにベルニージュが躊躇うはずはなかった。しかし、意思に反して従わせられている者に対してまでは無慈悲になれなかったのだ。
代わりの拘束の魔術を繰り出すのは今少し遅かった。ベルニージュの躊躇った間に、路地から屍使いたちの屍が殺到し、屋根の上からも降ってくる。
半狼半人はその爪と牙と剣と香りで以って抵抗する。しかし屍は香りに惑わされることはなく、爪と牙と剣に切り裂かれながらも次々に加勢が現れた。とうとう怪物は肉壁の質量に圧倒されて動かなくなってしまった。
「あいつが魔導書を持ってるの?」とフシュネアルテ。
「……体のどこかに封印が貼ってあるはず」とベルニージュは正直に答える。
「ああ、あった。これね」屍の壁を見通しているかのようにフシュネアルテは呟く。
そして仕事を終えた屍たちは再び路地を走り去り、そこには老女が一人取り残されていた。ベルニージは立ち呆けているユカリとグリュエーの元へ行く。
「大丈夫? この火を見て」
ベルニージュは指の間に火を灯し、ユカリとグリュエーの顔の前にかざす。すると二人は新品に取り換えたが如く表情に活力を取り戻す。
フシュネアルテの方は老女の元に歩み寄り、何事か声をかける。そしていくつか言葉を交わすと老女は何かを納得したように頷き、屍たちを追うように立ち去った。
フシュネアルテも追って立ち去る間際、一度振り返って不敵な笑みを浮かべる。
「魔導書同様、殿下の御心も譲りはしないから」
「え? 何? どういう意味? 何の話?」
ベルニージュの疑問にフシュネアルテは答えず、歩き去った。