テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「景色が何も見えない。運ぶ者が攫ってきた人たちを送り返した時より速いよね?」と運ぶ者の運ぶ手紙が喋る。
運ぶ者の走る速度において近景は飛ぶ矢の如く過ぎ去り、彼方へと消え去る。無数の形が後方へと引き延ばされ、隣り合う色は境界を失って混ざり合う。
「わあ。びっくり」と思わず運ぶ者は手紙を投げ捨てるが、慌てて駆け戻って拾い上げる。「何すか? 何で紙が喋るんすか?」
そこは、先ほどまでいた谷間の野原ではなく、どこかの森深い山中だ。色づいた葉が使い魔の巻き起こした空気に絡め取られて舞い上がり、舞い落ちていた。
「そういう魔法だよ」と手紙は答える。「少しくらいは喋れるし、動けるんだ」そう言って手紙は運ぶ者の手の一つの中でがさごそと身動きする。「大体、何で喋れるのかって君に言われたくないよ」
その運ぶ者は異形の姿に変身している。例えるならば雲丹のようだ。遠目に見れば球体のような輪郭で、しかし無数の猿の腕が生えている。
「まあいいや。とにかくまた急ぐっすよ」そう言って運ぶ者は、その表現が正しいのかは分からないが再び走り出す。猿の腕の塊は転がるようにして、しかししっかりとその手で大地を掴んで疾駆する
グリュエーの眺める色づいた森の景色は再び引き延ばされ、輪郭を失い、溶けあう。
「それで、なんでこんなに速いの?」
「そういう使い魔っす」
「いや、それは分かってるけど。前はここまで速くなかったよ。手を抜いてたわけじゃないよね?」
「手を抜くなんて、やりたくても出来ないっす。【命令】は絶対っすから」と運ぶ者は平然と答えるが、
「そっか。それは、そうだよね」とグリュエーは悄然として答える。「じゃあ、それならなんで?」
「昔お世話になった先生に聞いたっすけど、あんまり速過ぎると加速度? とかいう、ぐんってなるやつが大き過ぎると生き物は死ぬらしいっす」
「……なるほどね。前は死なないように手加減してくれてたんだね」とグリュエーは空恐ろしい気持ちを押し隠して呟く。
使い魔への【命令】は厳密にしなければ都合よく解釈され、穴を突かれる。攫われた人々を返した時、運ぶものを死なせないようにという命令をしていなかった迂闊を思い出したのだった。
「品が壊れたら運んだとは言えないっすからね」
妙なところで真面目だ。
ふとグリュエーの頭にノンネットが思い浮かんだ。真面目なところもそうだが、運ぶ者はノンネットと加護官たちの奇妙な修行と符合する。実際にグリュエーが目にしたことはないし、それが何の役に立つのかも知らないが、ノンネットは曲芸師のように加護官を足場にする修行をしているのだという。
変だけど真面目な奴というのがグリュエーのノンネットに対する第一印象で、それはずっと変わらなかった。
救済機構に攫われてきて、周囲の前向きな護女たちとの境遇の違いに混乱し、不貞腐れていたグリュエーに飽きずに倦まずに向き合ってくれていたのはノンネットだけだった。
今思えば自分の態度は八つ当たりであり、甘えだったように思い、グリュエーは恥じ入る。再会したならまずは謝ろうと心に決める。
グリュエーと運ぶ者は瞬く間に剣俊なる歯列山脈の谷間を抜け、その名にもなった王国の最高峰ネールメルの山の東側に位置する城塞都市ロガットの街に到着する。
ネールメルの山の裾野に沿って、亀裂のような谷間に弧を描くように建築物で埋め尽くすが如く肥大した街だ。山と城壁の間で層を重ね、密度を増し、歴史を積み上げてきた城砦だ。街を囲む城壁だけでなく、人々の住まう家屋、公共施設までもが壁のようにそそり立ち、連なっている。高い場所から眺めると巨大な樹の年輪か巨人の指を押し付けた拇印のようだ。元々ガレインは暖気保存、防風のために建築物を密集させる傾向にはあるが、ここはかなり極端な様相を呈している。
城壁を避けて山側から侵入し、街を爆走して救済機構の拠点を探そうとする運ぶ者を制止する。
「何すか? 急ぎじゃないんすか?」
「急ぎといえば急ぎだけど、その姿で街に入るわけにはいかないでしょ」
かといってこの不便な手紙の体でノンネットを探していては時間がいくらあっても足りない。せめて救済機構の拠点だという建物までは運んでもらいたいところだ。
「とりあえず、あの山の街を見渡せる高さまで登ってくれる?」とグリュエーは手紙の角でネールメルの山を指す。
「はいっす。着いたっす」
言葉の通り、瞬く暇もなかった。しかし登り甲斐はなかったが、登った甲斐はあった。機構の寺院ならば必ずある篝火台が街の北側で明々と輝いている。建築物自体は寺院のようには見えない。城壁に付随した塔屋や楼閣を増改築したものだ。それもシグニカの様式は篝火台だけで、他は分厚い石の壁に小さな窓の無骨なガレイン様式であり、あくまで借り物なのだと分かる。
「あれだ。あの建物まで行きたいんだけど、見つからずに行けるかな」
「見つからない魔法は持ってないっす。あたしは運ぶ魔法しか使えないっす」
「分かった。じゃあ、最速であの篝火台のある城壁まで行って手紙を下ろしたら全速力でみんなの所に戻って」
「了解っす。では、行くっす」そう言って運ぶ者はグリュエーをしっかりと摘まむ。
そして呪文も儀式も無しに常人には耐えられない加速度を身に纏って跳躍する。眼下のロガットの街はうら若い年頃の夏の日々のように一瞬で飛び過ぎ、猿の腕の塊の運ぶ者と古びた羊皮紙で書かれた手紙のグリュエーは救済機構の拠点の屋上に据えられた篝火台の元へ飛来した。
と、同時に運ぶ者は斬り捨てられた。何が起こったのか、グリュエーも運ぶ者もすぐには理解できなかった。グリュエーは運ぶ者の下敷きになっていて、運ぶ者の体は二つに分かれていた。そして封印の貼られていない方の下半身がただの丸太となって屋上に転がり、上半身は少女へと変わる。
「その魔法、運ぶ者ですか」清潔な前掛けを身に着け、血の味を知る片刃の剣を構えた女が言う。「不思議ですね。次の瞬間には逃げられるはずなのに。ここで何かをする命令を受けておいでで?」
違う。踏みつけたグリュエーの手紙を見つからないようにしているのだ。
「侍る者さん、お久しぶりっす」
再び運ぶ者は軽々と足を斬られ、丸太の端切れが砦の床に転がる。
「立たないでください。今、封印を見つけてあげますからね」
「どうして侍女風情がそんなに強いんすか?」と運ぶ者は苛立ちを抑えて、しかし隠しきれずに言う。
「貴人に仕える者であれば当然の嗜みです。まあ、今仕えさせられているのは田舎娘の護女ですが」
「仕える者っていたっすよね」
「仕える者ですね。あの子のように甘くはありませんよ。いいから黙って斬られていなさい」
侍る者の振り下ろした剣が、しかし今度は運ぶ者の足を斬り捨てることができず、代わりに腕を切り落とした。一か八か、グリュエーは運ぶ者を貼り直し、向きを変えたのだ。
その策は功を奏する。生まれた一瞬の隙に運ぶ者は侍る者の方へ走り出し、懐へと潜り、そしてまた斬り捨てられた。そしてとうとう剣が封印を捉え、剥がされてしまった。しかし、お陰で、グリュエーは侍る者の背中の前掛けの結び紐に挟まることができた。
侍る者は不思議そうに運ぶ者の封印を摘まむ。
「器用なことができるのですね。せっかくの生じた隙にやったことは下策ですが」
グリュエーは運ぶ者に感謝しつつ、じっと好機を窺う。護女に仕えるという侍る者がノンネットの元に向かったならありがたい。
侍る者は散らばった丸太を一か所に集めた後、建物の中へと入り、どこかへ向かって歩いてゆく。が、すぐに立ち止まる。
「ああ、侍る者さん。屋上で何を?」グリュエーのよく知る声だった。
「侵入者です。機構の人間に引き渡してきます。ノンネットさんこそ、自分の足で、加護官も連れず、屋上へ何の御用ですか?」
「ええ、この狭苦しい砦の中にずっといて息が詰まってしまって」
「残念ながらこの街自体息苦しい街ですが、では、また後程」
グリュエーは静かに侍る者から離れ、歩き去るのを待つとノンネットの背中を追いかける。
「ノンネット、ノンネット」と微風のような声で手紙は声をかける。
ノンネットは振り返り、地面に落ちた手紙が尺取り虫のように這う様を見つける。
「その声、エーミなのですか?」
「久し……、ノンネット! 大丈夫!?」
ノンネットは滂沱の涙を零して、グリュエーの手紙を拾い上げた。
「良かった。拙僧は、ずっと心配していたのですよ」
口うるさいばかりだと思っていたノンネットの思わぬ反応にグリュエーはたじろぐばかりだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!