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金曜の夜の居酒屋は、混雑を極めていた。
あと三十分、入店が遅かったら、俺も入口の椅子に座っていたろう。
「彼女が出来たんだ」
自棄酒気分で一杯目のビールを一気に飲み干すなり、千堂課長が言った。
今日の午後、珍しく営業一課の千堂課長に、飲みに誘われた。
正直、酒でも飲まなきゃ、やってられなかった。
この五日間、あきらとは連絡を取っていない。連絡できるはずがない。何もなかったように会いに行けない。
「もちろん、堀藤さんじゃないぞ?」
「……どうして、もちろん、なんですか?」
俺は目が合った同じ年くらいの女性店員に、ビールを注文した。空のジョッキを持つ女性の左手の薬指には、指輪。
「わかってたろ? 『泣きの一回』なんて言った時点で」
そう言って、千堂課長はワイシャツとネクタイの間に人差し指を入れて引いた。シュッと音を立てて、ネクタイが解ける。
二か月、三か月くらい前だったろうか。
俺の元上司である溝口課長が部下の不始末で釧路に移動になった後、千堂課長に堀藤さんを諦めるのかと聞いた。千堂課長は『泣きの一回であがいてみる』と言った。けれど、千堂課長が堀藤さんにアプローチしている様子はなかった。それどころか、彼女を溝口課長の元へと行かせようとしている。出張という、名目で。
業績不振で閉所目前だった支社を立て直し、応援要請があったのは事実。営業としては日が浅くても、事務経験はあるから役には立つだろうけれど、適任とは言えない。それなのに、千堂課長は堀藤さんに出張を指示した。
そんなことがあれば、千堂課長が堀藤さんを手に入れるつもりがないのは嫌でもわかる。
それに、課長に堀藤さん以外の好きな人がいるらしいことは、堀藤さんから聞いていた。
「お前は一回どころじゃないって言ってたろ?」
「……はい」
『泣きの一回ってありだと思うか?』と聞かれ、俺は『俺なんか十回くらい泣き入れてます』と言った。
「俺は、お前ほど頑張れなかったんだよ」
「その程度の気持ちだから、諦めたんですか?」
先ほどの店員が、ジョッキを持って来た。
どうしても指輪に目がいってしまうのは、憧れか。
店員は俺の視線になど気づかず、『ごゆっくりー』と言って他の客の元へと駆け出して行った。
「自分でもびっくりだよ」と、千堂課長が言った。
「何がです?」
「一瞬で、彼女に気持ちが移ったこと」
千堂課長は、イカの一夜干しを口に入れた。たっぷりのマヨネーズをつけて。
「ノロケを聞かされるために、誘われたんですか? 俺」と言いながら、俺もネクタイを解いた。
暑いのは、店内が混みあっているせいか、千堂課長の幸せ度数が上昇しているからなのか。
「違う、違う」と言って、課長は再びイカに箸を伸ばした。
そんなに美味いのかと、俺も食べてみた。確かに、美味い。マヨネーズに少量の醤油と七味がかかっていて、それがまた美味い。
「お前の気持ちは本物だ、ってこと」
「はい?」
「俺は泣きの一回も、最後まで踏ん張れなかったからさ。諦める方が楽だと思った。谷みたいに、諦めるのを諦めるなんてしんどいこと、出来る気がしなかったな」
ははは、と笑って、千堂課長がジョッキを持ち上げた。
「ま、今の彼女と付き合えたから、俺としては結果オーライだけど」
「やっぱり、ノロケられてるとしか思えないんですけど」
「悔しかったら、お前もノロケてみろよ」
挑発的な言葉とは裏腹に、課長はとても穏やかに微笑んだ。
「眉間に皺を寄せて仕事してないで、さ」
モテる理由がよく分かる。課長が堀藤さんを好きだと言い切った時の女性社員のざわつきは半端じゃなかった。その課長に、こんなに幸せそうな表情をさせる恋人が出来たなんて知ったら、女性社員の仕事の効率が八十パーセントは落ちそうだ。
「課長」
「んー」
「悔しくはないですけど、そのうち嫌ってくらいノロケさせてもらいます」
「楽しみにしてるよ」
混み合っているから二時間まで、と言われていたのも忘れて、二時間半、飲み続けた。
久し振りに酔うほど、飲んだ。
課長も酔っていた。
で、口を滑らせた。
「課長の恋人って社内の人ですか?」
「んーーー……」
課長は赤い顔で、頬杖を突きながら頷いた。
「凪さん……」
凪……?
そんな名前の社員、いたか?
頭が上手く働かない。
そもそも、女性社員の下の名前なんて、ほとんど知らない。
*****
月曜日。
課長から渡された書類を見て、一驚した。
『作成者:営業二課課長 冨田凪子』
凪子……。
凪さん――!?
この一週間の気鬱な気分を吹き飛ばす、驚きだった。
お陰で、あきらに連絡する勇気が湧いた。
週末、何時間もスマホを眺めて過ごした。あきらの番号を呼び出してはため息をつき、メッセージ画面を開いてはため息をついていた。
ちゃんと、顔を見て謝ろう。
会いに行く時間を作るためにも、仕事を頑張らなければと、気合を入れた。
そういう時に限ってやたら忙しくて。おまけに大西がインフルでダウンし、毎日終電帰りだった。もちろん、あきらに連絡する暇なんてなくて。疲れとストレスがピークに達しつつあった。
「すみません。高井は少し遅れるそうです」
坂上さんが言った。
彼女と顔を合わせるのは、あきらと喧嘩した日以来。
今日は、彼女が勤めるカフェ『カフェ・リラックス』の経営者、高井亘さんとの打ち合わせに来ていた。カフェ・リラックスは札幌市内に九店舗あり、ス〇バやタ〇ーズ、ド〇ールのような海外のチェーン店が軒を連ねる中、パスタやドリアのメニューや、ブレンドコーヒー二杯目から半額のサービスが人気で波に乗っている。
オーナーの高井さんは確か四十歳くらいだが、とてもそうは見えなくて、アメリカとイタリアへの修行留学の賜物ともいえる日本人離れした紳士的な雰囲気で女性に大人気。
その、カフェ・リラックスの札幌駅前店、大通店のオープン五周年記念のノベルティの企画が、俺の仕事。
高井さんから指示を受けた坂上さんは、俺に奥の席で待つように言った。俺は言われた通り、一番奥の窓際の席に座った。最近のカフェに多いように、この店でもソファを使用している。俺はずっぽりとソファに尻を沈めた。
「ブラックで良かったですか?」
坂上さんが白いマグカップを載せたトレイを持って、俺の横に立った。
「ありがとうございます」
彼女はカップを俺の前に置き、トレイを両手で抱き締めながら、俺の正面に座った。
「あの――っ」
視線を感じて顔を上げると、カウンターの若い店員二人が、こちらを見ていた。
「私と――っ、付き合ってもらえませんか」
店員に気を取られているうちに、坂上さんが言った。
「谷さんのこと、ずっと……素敵だなって、思ってて……」
ずっとって、いつからだろう?
そんなどうでもいいことを考えた。
俺がこの店に出入りするようになったのは、たった三気月前だ。
三か月は、ずっと、か?
「お願いします」
俯いていても、彼女の顔が赤いのはわかる。
誰かに好かれるのは、嬉しいことだ。
それが、たとえ、仕事用の顔だけだったとしても。
「お気持ちは嬉しいですけど、好きな女性がいます」
俺は彼女が好きになった、仕事用の笑顔で言った。
「……」
「すみません」
「……彼女……じゃないんですよね――?」
泣きだすかと思ったが、坂上さんは食い下がった。少し潤んだ瞳で、俺を見る。
「――なら、待ちます」
何を?
「谷さんに、少しでも私を見てもらえるように、努力します」
そんなん、俺だってしてる。
「だから、好きで、待っていても――」
「俺が好きな人に振られるのを?」
「――え?」
「すみませんが、好きな人の不幸を願うような女性は、俺は絶対に好きになりません」
こんなにきつく言う必要はなかった。
わかっている。
けれど、ムカついた。
早くあきらに振られろ、早くあきらを諦めろ、って言われているような気になった。
ぜってぇ、諦めねぇ!
坂上さんは大粒の涙を流しながらカウンターに駆け込み、同僚に慰められながらスタッフルームへと姿を消した。カウンターに残った女性店員が、親の仇を見るような目で俺を睨みつけた。
なんとも思わなかった。
あきら以外の女にどう思われようと、どうでもいい。
それよりも、早く打ち合わせを済まして、帰りたかった。
今日は木曜日。
明日こそ、あきらにメールする。