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都心の片隅にある、築三十年の安アパート。その三〇一号室と三〇二号室は、拓海と陽菜の「不可侵条約」の舞台だった。 二人は幼稚園からの幼馴染で、二十四歳になった今も、金曜日の夜はどちらかの部屋で安酒を飲むのが習慣だった。
「拓海、またコンビニの唐揚げ? 少しは野菜食べなよ」 「うるさいな。お前こそ、その変な色のスムージー何だよ」 「これは『意識高い系』のダイエット。女心、わかんないかなぁ」
陽菜は笑う。少し痩せた頬を隠すように、オーバーサイズのパーカーを着て。 拓海はその笑顔を見るたびに、胸の奥にある「好きだ」という言葉を飲み込んだ。彼女が口癖のように言う「私たちは最高の親友」という言葉が、拓海にとっての安全地帯であり、同時に冷たい檻だった。 陽菜が時折、グラスを持つ手を震わせていること。笑い声の合間に、浅い呼吸を繰り返していること。拓海は気づいていたが、「最近、仕事忙しいの?」という問いに彼女が「充実してる証拠!」と答えるのを信じるしかなかった。それが彼女との関係を壊さない、唯一のルールだと思っていたからだ。
季節は巡り、三度目の冬が来た。 陽菜の「ダイエット」は、もはや病的と言えるほどに進んでいた。顔色は土色に近く、自慢だった黒髪も艶を失っている。それでも彼女は、拓海の前ではフルメイクを欠かさず、一番明るい声で喋り続けた。
「ねえ、拓海。もし私が明日、宇宙人に連れ去られたらどうする?」 「……警察に届けるよ。あと、お前が借りっぱなしの漫画を回収する」 「ひどいなぁ。そこは『一生探す』とか言ってよ」
冗談めかした彼女の瞳が、一瞬だけ湿ったのを拓海は見逃さなかった。 その数日後、陽菜は「部署異動で地方に行くことになった。落ち着くまで連絡できないかも」というLINE一通を残して、アパートから姿を消した。 拓海は怒った。相談もなしに決めたのか、自分はその程度の存在だったのかと。 「勝手にしろよ」 送った返信には、既読がつかなかった。
半年後。拓海は仕事帰りに、陽菜の母親から電話を受けた。 指定されたのは、地方の病院の緩和ケア病棟だった。 白いベッドに横たわっていたのは、かつての面影を辛うじて残しただけの、骨と皮ばかりの「何か」だった。
「……陽菜?」 震える声で呼ぶと、彼女はゆっくりと目を開けた。そこにはもう、嘘をつく気力さえ残っていないようだった。 「……拓海……ごめん、ね……。格好悪いところ、見せたくなかった……んだけどな……」
母親が、涙ながらに真実を告げる。三年前、二人が一番楽しそうに酒を飲んでいたあの頃、彼女には既にステージ4の癌が見つかっていた。医師からは「余命一年」と宣告されていたこと。 彼女は、延命治療よりも「拓海と過ごす普通の日常」を選んだ。 髪が抜ければウィッグを被り、吐き気がすればトイレで隠れて吐き、痛みにのたうち回りながら、拓海の前では「親友」として笑い続けた三年間。
「どうして……どうして言ってくれなかったんだよ!」 拓海の絶叫に、陽菜は力なく微笑み、その翌朝、息を引き取った。
葬儀の後、拓海は陽菜が遺した一冊の日記を受け取る。 そこには、拓海が隣の部屋で眠っていた夜、彼女がどんな地獄を生き、何を想っていたかが綴られていた。
『〇月〇日。拓海が「また来年な」って言った。その「来年」に私がいられないことが、何よりも申し訳なくて、苦しい。嘘をつくのは疲れるけれど、彼が私の病気を知ったら、きっともう、あんな風にバカな話をして笑ってくれない。私は、死ぬまで『女の子』でいたい。拓海の好きな、元気な私でいたい。』
『〇月〇日。本当は今日、告白しようと思った。でも、やめた。私が「好き」と言えば、拓海は私の死を、自分の体の一部がもぎ取られるような痛みとして背負ってしまう。それなら、ただの幼馴染が死んだ、という悲しみだけで済ませてあげたい。ごめんね、拓海。これは私の、最後のエゴだよ。』
日記の最後の一ページには、血の滲んだような跡と共に、たった一行だけ、拓海への遺言が記されていた。
『ずっと、ずっと、大好きでした。私の分まで、美味しいものを食べて、誰かと恋をして、おじいちゃんになってね。』
拓海は、誰もいない三〇一号室に戻った。 管理会社に鍵を返す前の、最後の一時間。 彼はフローリングに座り込み、陽菜が好きだった銘柄のビールを二缶開けた。
「……勝手すぎるだろ、陽菜。一人で全部背負って、一人で完結させて……俺に何もさせないなんて、そんなの優しくも何ともないよ」
空っぽの部屋に、拓海の嗚咽が響く。 三年間、彼女は隣の部屋で、死の恐怖と戦いながら、拓海との「普通」を守り続けていた。その献身的な嘘が、今や鋭い刃となって拓海の心を切り刻む。
拓海は、彼女の手紙を胸に抱きしめた。 彼女が命を削って守ろうとした「拓海の日常」。それを無駄にしないために、彼は生きなければならない。 立ち上がり、窓を開ける。 そこには、彼女がもう見ることのできない、三年前と変わらない残酷なほど青い空が広がっていた。
「……行ってくるよ、陽菜」
拓海は、彼女が遺した嘘を、一生をかけて解いていくことを誓った。 三〇一号室の重い扉を閉める音は、新しい孤独と、消えない愛の始まりの合図だった。