彼は絵を描いている間、絵のモデル達——-例えば人や景色、そして時に彼の頭に浮かぶ幻想的な光景達——-にまるで恋をするように夢中になり、心を奪われてしまうのだという。然し、その恋は残念ながらいつも彼の片想いに終わる。幾度となくそんな事を繰り返し、彼は「作品の数だけ恋をし、同時に失恋してきた」と、そう言った。
彼を虜にしたもの。
それは、星屑で出来た海を泳ぐ一頭の鯨と、異国の少年。
或いは、ブルーベルに恋した蜜蜂と、光に満ちた庭。
或いは、真紅の薔薇と、怠惰な蝙蝠。
そして、一輪の白百合と、幼馴染である私の横顔。
彼の筆先が描く世界は、時に大切な存在を失ったような哀しみを滲ませ、時に母親の腕の中にいるような穏やかな温かさを感じさせる。
さながら万華鏡のように常に新鮮さを失わず、一枚たりとして既視感を感じさせない彼の絵は観る者を魅了した。
海外のものを含め、いくつかのコンクールで大きな賞をとった彼は、いつしか周囲の注目を集めるようになっていった。
学校へは有名なTV局から何度か取材が来たし、個展を開けば描いた絵を高値で買い取りたいと申し出る大人も多くいた。
そんなふうに周囲からも才能を認められているのに、当の本人は箔を付けることだの、金銭のどうこうだのには一切興味がないらしい。
僕はただ身を焦がすような恋がしたいんだ。
出来ることならあの情熱と恍惚の中にいつまでも溺れていたい——-ただそれだけなんだよ、と彼はそう語る。
「…馨、まだ?」
私は船を漕ぎそうになるのを必死で堪えながら、彼に問いかける。
「まだ」
と彼は短く返す。
「足の裏に根っこが生えそうだよ」
と私はぼやく。
学校の制服である、白地に水色の襟が印象的なセーラー服に身を包み、椅子に腰掛けた私は、一輪の白百合の香りを嗅ぐように目を瞑り俯いたまま、かれこれ二時間近くはその体勢をとっている。
暖かな春の陽射しも相まって、私は最早夢の世界の住人になりかけていた。
暫くは何とか堪えたものの、うつらうつらと再び船を漕ぎかけ、遂に意識を手放した私は、がくんと頭を上体ごと前に倒してしまう。
その瞬間、私は覚醒すると、やや緩慢な動作で上体を起こした。
「ふぁ…」
欠伸と共に大きく伸びをする私に向かって、
「あともう少しだから…動かないで、」
秋良、と彼はカンバスを睨みながら私の名を呟くようにして呼んだ。
ごめん、と掠れた声で謝罪をした私の疲れ果てた表情を見た彼は、小さな溜息を一つ吐くと、気遣うようにペットボトルのお茶を差し出す。
「大丈夫?少し休憩しようか」
「…ありがとう」
差し出されたペットボトルを受け取り、私はお礼の言葉を口にする。
ふと視線を感じて、顔を上げると、彼と目が合った。じっと此方を見つめる彼に、私は気恥ずかしくなって慌てて視線を逸らす。
彼の視線はほんの僅か、しかし確かに熱を孕んだものであり、表情は恋人に向けるそれのように穏やかだった。私は、あぁ、いつもの絵のモデルに対する恋慕の情だな、と気付く。
懐かしい記憶が甦る。
それは彼が絵のモデルに何度目かの「失恋」をした時の事だった。
確か相手は五十代前後の美しい淑女だったと記憶している——-そしてその対象は時に男性だったり、一匹の黒猫だったり、果ては物言わぬ存在だったりする事もあった——-彼からの告白を丁重に断わったその女性は、沈痛な面持ちをした彼に対し、申し訳なさそうに軽く頭を下げて別れの挨拶を告げると、振り返ることなく静かに去っていった。
その時の彼は四日も水以外のものを口にせず、夜も眠れていないようだった。窶れ虚ろな様子の彼を心配する私に、彼はこう言った。
「…大丈夫、一時的なものだよ」
慣れてるんだ、と彼は少しだけ苦しそうに微笑む。
「皆《みな》いつも僕を魅了し、僕を通り抜け、やがて去っていく。そしてそれはとても辛いけれど、仕方のないことなんだ」
更に、彼はこう続けた。
「…この哀しみや切なさすらも含めて、きっと初めて僕の作品は完成する、」
僕はそう思うんだ——-そう淋しげに呟く彼を、その当時の私はただ幼馴染として静かに抱き締めることしか出来なかった。
そして現在、絵のモデルに選ばれた私は、自分が彼から恋愛対象として見られているという事実を前に、確かに高揚していた。
私は、美しい絵を描く才能と引き換えに、報われない恋を繰り返す彼を傍で見ている内に、いつしか彼のその絵にかける情熱とまっすぐな瞳、そして硝子細工のような繊細さと優しさに惹かれていっていたのだ。
彼への想いは日々募る。軈《やが》て告白しよう、そう決心した私は、彼に想いを伝えるタイミングをずっと窺っていた。
すると先日、中々タイミングを掴めないでいる私の元へ、絶好のチャンスが巡ってきた。
その日、彼は下校中に立ち寄ったカフェで「…以前から思っていたんだけれど、」と私の横顔を眺めながらこう言った。
「秋良って凄く綺麗な横顔をしているよね。雰囲気もあるし」
——-実は前からずっと描きたいと思っていたイメージがあるんだけど、秋良ならそれにぴったりだと思うんだ。
「…だからもし良かったら、今度僕に描かせてくれないかな」と。
きっとこれは神様がくれた千載一遇のチャンスだ、そう考えた私は、彼からのこの頼みを二つ返事で承諾したのだった。
「…馨、あのね」
私はぬるくなったお茶を一口飲み、放課後の美術室の天井を見上げる。
天井を見上げたままゆっくりと一度だけ深呼吸をしてから、私は彼へと視線を戻し、大事な話があるのだけど、とおもむろに切り出す。
「ええと…」
煮え切らない様子の私を見て、彼は不思議そうな表情《かお》をする。そんな彼を前にして、私は意を決して重い口を開いた。
「その…馨のことが好きです」
「幼い頃から一緒に過ごしてきて、気付けば馨のその繊細な心、優しさに惹かれていました。そしてずっと失恋で苦しんできた馨を見てきて、傍で支えたい、守っていきたいと、そう強く思いました」
上手く伝わるだろうか、そんな不安を抱えながらも、私は彼への想いを、言葉を紡ぐ。
「だから…もし良かったら、私と付き合って下さい」
鼓動が矢鱈と煩い。どくん、どくん、と鼓膜にまで響くそれは、私の抱える期待と不安の大きさを表していた。
私の言葉を聞いた彼は、少しだけ驚いた表情をして、それから今まで見たことがないほどとても柔らかく微笑んだ。
ありがとう、と一言そう言うと、彼はこう続ける。
「辛い時、いつも傍に居てくれた秋良の優しさに、僕もいつの間にか惹かれていました。…いつまでもずっと傍に居てほしい——-今までのモデルさん達に抱いてきた感情とは違うこの気持ちに、最初は戸惑ったんだけど…」
「こんな僕をいつも支えてくれてありがとう。…僕も、秋良の事が好きです」
いつも身に着けている、銀縁の華奢な造りのメガネを外しながらそう告げる彼は、なんだかいつもより大人びて見えて、普段の彼とのギャップに私は少しだけどきりとする。
胸の高鳴りを鎮めるように、私は静かに目を伏せた。
そんな私を優しく抱き寄せ、彼は耳元でそっと囁く。
「——-永遠に僕を、あの身を焦がすような情熱に溺れさせてください」
と。
私は羞恥で耳朶まで紅く染まっていくのを感じながら、小さくはい、と答えた。
切り取られた午後のひとときの中、私は世界に彼と私しかいないような、そんな不思議な感覚に包まれる。
校庭から聞こえる歓声も、廊下で燥《はしゃ》ぐ友達の声も、響くチャイムの音も、日常を形作る何もかもが遠く感じて、何処か別の世界の出来事のように思えた。
開け放された窓から入る柔らかな春風がふわりとカーテンの裾を弄んでいる。
凪いだ水面のような空は何処までも青く深く澄んでいて、見上げれば時折気紛れに桜を泳がせていた。
春はまだ、始まったばかりだ。
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