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「最近の美子がね、嬉しそうに語るんだ、仕事の話を。ある時から急に仕事への熱が変わってね。聞いたところによると、君のおかげだと。親として、君にお礼を言いたくてね」
社長の表情が殊更穏やかで優しいものとなる。私も、眞鍋さんの姿を思い浮かべれば誇らしげな気持ちになるので同じ様に微笑んでみせる。
「恐縮です、美子さんの姿勢次第で、私は何も」
だけど、そうかい、と、彼が一言告げればその目の奥が少しだけ色を変えた。
「秘書課への異動を断った理由を聞かせてくれるかい」
「それは……私よりも適任がいるかと。若くて仕事が出来る人材なら他にも居ます」
「そうか。君は……とても謙虚な方のようだ。ただ」
言葉を溜める社長の出方を見守っていれば、ふわりとその口元が穏やかに弧を描く。
「謙虚なのは大いに結構、しかしそれで、この先やっていけるのかな」
「……と、申しますと」
固唾を飲んでその真相を尋ねた。
この部屋は、一切の音が聞こえない。
私と対面する、初老で威厳のある男性の身体から発する音しか聞かせない。
黙っていれば、唇が動く音さえも届きそうだった。
更に言うと、瞬きの音さえも、静かに…………。
「半年ほど前、娘が急に」
宙を漂うその視線が再び私をまっすぐと捕らえた。
「常葉くんとの、婚約は進めたくないと」胸が、一瞬で壊れたみたいに嫌な血流を身体に送り出す。
「婚……約」
情けなく上擦った声を絞り出すと同時に指先が震えた。
「そうだね、考えているのは私だけ。一応彼には伝えては居たのだけれど」
握り締めても、震えが止まることは無かった。
『そんなくだらない嘘をつく理由がない』
…………あれは、嘘?
どっちが嘘?
考えているのが社長だけならば、常葉くんは婚約をしたつもりはなかったのだろうか。
「私はね、穂波くん」
声を出す事も出来ずにその人を見上げた。
「彼の父上にこの会社を任された。尊敬する方のご子息だ。常葉くんがご自分の父親の会社ではなく、うちに来てくれた時に、いずれ彼に返そうと決めたんだ。……娘と結婚を進めてくれると穏便に済むと思ったんだが」
そうなんですね、
確かにその方が、
穏便に進むと、
私も、
パラパラと、心の奥底で返事をする。だけど決して言葉に出すことは叶わなかった。
「穂波くん、君は優秀な人材だ。だけど、君のその覚悟で」
再びその瞳が私を捕える。
もう足が地に着いた心地も、感覚さえ失った私に
「この先、彼の隣に居れるのかな」
更にナイフを突き立てる。
「…………どうかな」
返す言葉が見つからない。
何処をどう探しても、何も無い。
壁に掛けられた肖像画は、きっと、積み重なった歴史たち。
その1枚1枚が、私をじろりと見つめている。
情けなく震える私を、じっと見下ろしている。
空っぽの頭を何とか動かして家に帰りつくと、ドアを開けた瞬間小さな話し声が聞こえた。同時に香ばしい香りが鼻腔を掠める。
明らかな違和感に、恐る恐る顔を出せばキッチンにその姿が見えた。
「うん。じゃあまたね」
常葉くんはそう言って、壁面に貼り付けたスマホを操作する。驚いてカウンターに回ると、そこには出来立ての料理が並んでいた。
「え、作ってくれてたの?」
「うん。豆苗また伸びてたから、かき揚げ。作り方母さんに聞いてて」
言われてポットを見れば、確かに青々としていたそれはざっくりと切られていた。
ぱちぱちと泡の弾ける音がカウンターキッチン越しに届く。
好きな人が、自分の為にしてくれる料理の音って世界一幸せな音色だと思う。
それにしても、香りと言いできばえといい、一瞬でお腹が鳴る。
そう言えばお昼ご飯ひと口も食べれていなかったな、と、今更その事実を思い出す。
「ひとつ、食べてもいい?」
「いいよ」
サクッと音を立てて口に含むと、豆苗の食感の中にコーンが弾けて、あまじょっぱい味付けが口内に広がった。
「美味しい〜…幸せ」
口から思わず、言葉が零れた。同時に溢れそうになる感情を瞬きだけで乾かす。
「……依愛、どうかした?」
静かな声にさえビクリと心臓が震えるから、口に笑顔を貼り付けてその顔を見上げる。
「何も無いよ、着替えてくるね」
簡単にそう言って踵を返すと、すぐに部屋に入った。涙で滲むのをこらえて手足を動かすことに集中させた。
……そう言えば、この前ボーナスが出た時に預金をしようとして驚いた。
彼氏ができるといつも散財する私が、ちゃんと貯金も出来ていたのだ。
買い物に行く度に”お金出すよ”という私を常葉くんは毎回諌めてくれていたからだ。
……まだ引き返せる。
付き合って、もう半年。……まだ半年。
まだ、戻れる。
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