時計塔の一件から、二週間程が経過した。何事もなかったみたいな日々を過ごす中、その日の朝はララが一枚のカードを携えてカーネの前に現れた。
『おはよウ、カカ様』
「おはよう、ララ」
メンシスはもう部屋に篭って事務仕事を始めており、シェアハウスの住人達は姿をちらりと現してもすぐにまた外出して行っておりこの家には今日も二人きりの状態だ。一階にあるキッチンスペースを掃除している最中であったが、それを中断してカーネがその場にしゃがむ。
「此処最近あまり姿を見なかったけど、何処かに行っていたの?」
軽く首を傾げるカーネに対し、ララが『えェ、そうヨ』と返す。
『向こうで少し話しましョ』
そう言ってララが一階にある共有スペースに足を向ける。カーネは持っていた箒を壁側に立て掛けると、周囲を気にしながらララの後に続いた。
「——で、改まって話って何かな」
揃ってソファーに腰掛けると、早速カーネがララに問い掛けた。まだ自分の定めた休憩時間ではないから、用件を早く済ませて仕事に戻らねばとカーネは思っている。
『年始の夜に引き受けた件があったでしょウ?あれが完了したノ』
宝石みたいに綺麗な赤い瞳を細めてニコリと笑い、ララが猫の手でスッと器用にカーネの前に一枚の身分証を差し出した。
「ま、まさか本当に、“私”の戸籍を用意して来たの?」
驚きを隠せずに思ったままの言葉を発した後、カーネは慌てて自分の口を両手で塞いだ。今は住人達が不在のはずだが、いつ何時誰が戻って来てもおかしくはない建物なので、大丈夫だっただろうかと周辺を見渡したが別段変化は無かった事でカーネが胸を撫で下ろす。事務室の中に居るメンシスは当然の様に全てのやり取りを見聞きしているが、それを知らぬ身では気が付き様もなかった。
『伝手があるから用意は可能だと言ったでしょウ?大丈夫ヨ、不正な方法ではないかラ。「不幸な環境に生まれ、出生届を出してもらえていなかった。その事を今まで知らずに生きてきたのだけど結婚の為に届けを出そうとした事で戸籍を持っていなかったと初めて知り、この度申請書を提出しました」という体で全て処置したからラ』
「成る程。まぁ……現実とは齟齬があるけど、その設定は覚えておくね」
身分証をララから受け取り、カーネが軽く目を通す。一般市民なので苗字は無く、名前の欄には“カーネ”とだけ書かれている。他には生年月日、現在の住所が書かれていて複製が出来ない魔法が掛かっている。もし知らずに紛失しても勝手に持ち主の元に戻る仕様にもなっていた。
『是非そうしテ。この先はずっとそう突き通す必要があるかラ』
「うん。……ありがとう、ララ」
『どういたしましテ。これで、少しは懸念材料は減ったかしラ?』
「懸念材料?」
『シス様の気持ち二、すぐには応えられない理由の一つくらいはコレで消えたかしら?って訊いているのヨ』
うぐっとカーネが声を詰まらせ、「まぁ、うん……」とお茶を濁す。確かに今すぐ彼の想いには応えられない理由の一つが消えはしたが、子供の頃のメンシスがふわりとカーネの側に近づいて来る幻覚が消えてくれない。真っ当な方法で新しい籍を手に入れて、一般人として生きていける様になった事には感謝しかないが、初恋に縛られているこの状況を改善出来る程のものでは無かったみたいだ。
『そういえバ、そろそろ新聞が届く頃合いよネ』
「あぁ、確かにそうだね」
二人が窓越しに外を様子を確認する。今日はいつもより早い時間からメンシスが仕事を始めた為、カーネも早めに掃除を開始した事でいつもとは順序が逆になっていた。
冬特有の冷たい印象のある空を背景に白鳩が四方八方へ飛んでいる。聖女の遺物に頼り切り、マジックアイテムの発展がルーナ族よりも遅れているこの国では新聞が主な情報源であるからか、何度見ても物凄い数の鳥達だ。
「……飛んでいる鳩を見ていたら、追いかけたくなったりとかする事はあるの?」
『あるワ』とララが真剣に返す。そして少しの間の後、二人は顔を見合ってフフッと笑った。
『まァ、魔法で白鳩に擬態して空を飛ぶ新聞を追ったりハ、流石にしないけれどネ』
「そっかぁ。確かに、追いかけて破ってしまったら困る人達が出ちゃうものね」
そんなやり取りをしている間に、このシェアハウスにも朝刊が無事に届いた。頑丈そうな玄関扉をすり抜け、床に到着した途端に新聞へと姿を戻す。
『回収しておいたラ?このまま床に置きっぱなしにしておくよりハ、良いと思うわヨ』
「そうだね、そうしておこうか」と返し、カーネはソファーから腰を上げて一般家庭よりも少し広めな玄関ホールに向かった。
床に落ちている新聞をカーネが手に取る。メンシスの元に早速この新聞を届けようかとも思ったのだが、いつもよりも早く仕事を始めたくらいだ、きっと今は忙しいに違いない。邪魔をするよりは休憩中に渡す方が良いだろうと考え、カーネは後回しにする事にした。
共有スペースに戻り、カーネはテーブルの上に新聞を置いた。そしてララに「じゃあ私は掃除に戻るね」と伝える。するとララは優しく微笑み、『じゃア、アタシも昼寝に戻るとするワ』と返した。
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