休憩時間に入り、一階のソファーに座って一息ついた。そして時計を見上げる。いつもならシスさんも同じ頃合いで休憩に入るのだが、今日は余程忙しいのか、事務室の扉が開きそうな気配はなかった。扉をノックし、『そろそろお昼ですよ』と声を掛けるよりは、軽食でも用意して持って行こうかな。だって、そんな声の掛け方をしたら、真面目なシスさんは仕事を中断してまで食事の用意を始めてしまいそうだし。忙しいのに忍びない。ならば私が用意しておいた方が良いだろう。シスさんと比べると腕前はまだまだだが、基本くらいはマスターしたつもりだ。だからきっと『料理』と言える程度の物は一人でも作れるはず。食材は一階にある保存庫の中にも色々とあるから、そこでサンドイッチでも作っておくか。サンドイッチなら仕事をしながらでも食べられそうだし。——そう決めて立ちあがろうとした、その時。朝、テーブルに置いておいた新聞がふと目に入った。
(あー……。調理を始める前に、少し目を通しておこうかな)
毎日習慣的に読んでいる訳ではないのだが、広範囲を掃除して、まだちょっと疲れている体を休ませるには丁度良い口実だった。
新聞を手に取り、大きなソファーに深く腰掛ける。手付かずのままになっていた新聞を広げてテーブルに戻すと、即座に一面の記事が目に入った。それは久しぶりにセレネ公爵家に関してのものだった。少し前までは、新しい事業を始めて功績を上げた件や福祉に力を入れていて王家から褒美を貰ったといった記事が度々新聞を賑わせていたらしいのだが、最近はぱたりとそういった情報は載らなくなっていた。よくよく考えると、私が家出をした辺りからすっかり新しい情報は見聞きしなくなった気がする。
(まさか、“|カーネ《私》”の死で気を病んで……?)
違う違うと即座に首を横に振る。ララから、メンシス様が“|カーネ《私》”の墓の前で悲しんでくれていたであろう様子が伺える話を聞いたからか、見当違いな考えが頭をよぎってしまったみたいだ。
「えっと……」
主見出しにはセレネ公爵様が魔物の討伐の為に辺境伯の依頼を受けて、今は首都から離れていると簡素に書かれていた。
寒さの厳しい冬は魔物が多くなる様な時期では無いので、他家へ討伐の協力を求めるのはとても珍しい事だ。そもそも辺境伯に任命される者達は全てにおいて実力のある猛者ばかりだと聞く。それなのにセレネ公爵家に助けを求めたとなると、きっと想定以上の魔物が現れたに違いない。
「こんな季節じゃ物資も足りていなかったのかな」
想像の域を出ないが、そう思うと、無事なんだろうかと心配になってきた。だが新聞では必要最低限の情報しか書かれていないので依頼がきた理由までは流石にわからなかった。
読み進めていくと段々不穏な流れになってきた。魔物の種類だけでなくて出現している個体数も多くて普段では陸地にまでは出没しない海の怪物・セイレーンまでもが沿岸部に来たらしい。歌声に誘われてしまった行方不明者が多く、おお、く——
「……メンシス・ラン・セレネ公爵様が、行方不明?」
何故か行方不明者一覧の中に、メンシス様の名前が並んでいる。読み間違ったのかと思って何度も見返したが、残念ながら間違いではなかった。
「い、いや、まさか……だって……」
姉がいつも自慢していた。『メンシス様は見目麗しいだけではなく、文武両道の猛者だ』と。『無駄の無い素晴らしい肉体で剣を振るう姿はまるで演舞の様に美しく、魔法の腕前も国一番だ』とも話していた。自分の婚約者を自慢したくて仕方がなかったのだろうが、姉にとってもそれらは人伝に聞いた情報でしかなかったのに、私の前で彼の事を語る時の姉はいつも機嫌が良かった。冷たい床に座らされ、両膝をヒールの高い靴で踏まれながら聞かされた話でなかったのなら、私も喜んで聞いていられただろうに。
(そんな彼が、行方不明?)
納得が出来ず、新聞に載る情報を私は疑った。セレネ公爵家であれば、物資も武装も何もかも抜かりはなかったはずだ。他にも多くの騎士達が同行していただろうし、その者達の腕前も相当のものであっただろうに、セレネ公爵側の行方不明者は当主のみらしい。真っ先に守られるはずの者だけが行方不明だなんて、そんな馬鹿な話があるだろうか。
(——あってたまるか)
そう思った瞬間、新聞をグシャリと握り潰してしまった。まだ他の誰かが読む物なのに、『どうしよう』と気を回す余裕も無い。『まさか』と考えれば考える程目の前が真っ暗になり、足元からガラガラと世界が崩れていく様な気分になっていく。時計塔の一件から度々見えていた金髪の少年の幻覚が、その美しい顔が、骸骨になって私を背後から抱き締めてきた。
『タスケテ……』
そう彼に囁かれた気がした瞬間、瞳からボロボロと涙が溢れ始めた。仕事中のシスさんには聞かせまいと嗚咽を堪え、食いしばった口元が酷く震える。
幻聴なんか無視するべきだ。“私”の事なんかあの人は待ってはいない。だって、そもそももう生きていないと思われているんだから。なのに、なのに——
(聖女となる資格があるらしい“今の自分”ならば、メンシス様を探し出せるのでは?)
魔力の扱い方と座学はシスさんから少しずつ習ってはいるが、まだ神力の方は扱い方すらよくわかっていない。それなのにそんな事を考えてしまう。
聖女の力は特別だ。それは初代聖女であったカルム様が充分証明して下さっている。
(人探しの方法なんかさっぱりだが、とにかく現地に行けばどうにかなるのでは?)
メンシス様が行方知れずになっているのはソレイユ王国の北部にあるクランシェスという地域らしい。前に見た地図を思い出す限りクランシェスは王都からは結構遠いから、まずは北部行きの馬車に乗って、その中でどう探すべきか考えよう。捜索隊があるのなら、魔法が使える事を主張して加えてもらえないか交渉してみても良いかも知れない。
「——どうかしたんですか?」
急にシスさんに声を掛けられ、ビクッと体が跳ねた。明らかに不審な行動だ。
「い、いえ!特に何も……」と言いつつ新聞をそっと畳み、隅に寄せる。『変に思われていたらどうしよう』と思いながら、「お仕事お疲れ様です。これから休憩ですか?」と話を逸らすみたいに訊いた。
「えぇ、やっと一段落したんで。前の仕事の引き継ぎの為の書類作成が結構あって。字を書き過ぎて手首が痛いですよ」
手首を軽く揉みながらシスさんが苦笑する。目も疲れているのか眉間も指先でさすっていた。
「お疲れ様です。お昼ご飯にサンドイッチでも作ろうかと思っていたんですが、どうですか?」
「いいですね!じゃあ気分転換にもなりますし、一緒に作りましょうか」
疲れているだろうに『気分転換』と言われると断りにくくなる。シスさんはホント、私の負担にならない言い回しが得意な人だ。
「……わかりました。じゃあ、早速作りますか」
「食後に、僕の手首に回復魔法をかけてもらってもいいですか?練習にもなるでしょうし、どうでしょう?」
「任せて下さい。頑張ります」
自分にもシスさんに出来る事があると、とても嬉しい。新聞を読んでいるうちに落ちていた気持ちが少し軽くなった気がした。
(シスさんへの恋心があるおかげで、メンシス様が行方不明だと知っても、前を向いていられるのかもしれない)
ニコッと微笑みながら「広いし、一階のキッチンで作りましょうか」と声を掛けてくれる彼のふんわりとした雰囲気に触れ、私は心底そう思った。当たり前の様に差し出されて手に手を置く。肌を通して感じる彼の体温のおかげで、過去に置いてきたはずの感情に私を引っ張り戻そうとする幻覚も見えず、幻聴も聞こえない。
(……そんな人から離れて、私は自分を保てるんだろうか?)
そうは思ったが、それでも、メンシス様を探しに行こうという決意は揺るがなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!