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廊下に出て右へ曲がり、翔くんがトテトテと向かった先は真帆の部屋だった。
真帆の部屋なら高校の時に何度か入ったことがあるし、勝手に入ってもたぶん、問題ないだろう。
高校の時と相変わらず、真帆の部屋は可愛らしさ半分、それとは似つかわない実験器具や古い魔術書半分といった感じで、整然としているのか雑然としているのか判らない。
床にはふわふわのラグマットが敷いてあって、翔くんはその上を歩きながら部屋の中を見回して、
「あえ、あえ!」
と勉強|(実験)机の横、小さな本棚を指さした。
そこには沢山の絵本が三段に分かれて収められており、このうちの何冊かは僕が真帆にプレゼントしたものでもあった。
僕は膝をつき、翔くんの視線になるべく合わせながら、
「これ?」
と本棚から象の描かれた絵本を取り出した。
翔くんはそれを受け取るとちょこんと床の上に座り、ペラペラとページをめくっていく。
文字なんて読めるはずもなく、読んでくれとせがまれることもなく、翔くんはその絵を見終わるとラグマットの上に放り投げ、
「つい! つい!」
と再び本棚を指さし、僕の背中をぽんぽん叩いた。
「あぁ、はいはい」
と次に僕が手を伸ばしたのはオタマジャクシの描かれた絵本で、けれど、
「ちあうちあう!」
と翔くんはぶんぶん首を横に振る。
どうやらお気に召さなかったらしい。
「えぇ? どれがいいの?」
それから何冊か引き抜いて翔くんに見せてみたのだけれど、どれもこれも「ちあう、ちあうの!」と首を振り続け、最後には目を潤ませながら今にも泣きだしそうになる始末。
困り果てた僕はこれならどうだ、とばかりに既成の絵本ではなく、真帆が大切にしてきたとある魔女の女の子が主人公の絵本――というより手書きのノートを取りだして、
「そえ! そえおんで!」
よたよたと歩きながら、翔くんは僕の膝に腰を下ろした。
僕は背中を壁に預け、そのノートを開く。
そこにはいかにも子供が描いたらしい、可愛らしい魔女と黒猫の絵が描かれていて、困っている森の動物たちを次々に魔法を使って笑顔に変えていく、ただそれだけの小さな物語だった。
僕がそれを最後まで読み終えると、
「もっかい! もっかい!」
翔くんがもう一度読めとせがんでくる。
「え? もっかい?」
「もっかい!」
僕は再びノートを最初のページに戻し、同じような調子で声に出して読んで――
そんなことを三、四回繰り返しただろうか。
いつしか翔くんはうつらうつらと舟を漕ぎ始め、寝返りを打つようにしてくるりと半回転すると僕のお腹に顔を埋め、そのまますうすう寝息を立てて眠り始めた。
僕はそこでノートをぱたんと綴じ、真帆のベッドの上に置きながら、
「……動けん」
翔くんの可愛らしい寝顔を覗き込みつつ、小さく呟いた。
はてさて、これからどうしたものか。
しばらく翔くんの背中をぽんぽんしながら、ぼくもいつしかうつらうつらし始めた頃、
「――おい、お前も寝るのか?」
唐突に男の声がして僕は驚き、目を瞬かせた。
いったいどこから、と辺りを見回せば、目の前に一匹の黒猫が座っている。
黒猫はゆっくりと瞬きすると、
「よう」
と小さく口にした。
「あぁ、なんだセロか」
セロは真帆の魔獣――魔力を持った獣、いわゆる使い魔である。
最初セロが喋ったときはさすがに僕も驚いたけれど、慣れきってしまった今となっては別段気にするような事柄でもない。
むしろそこら辺を歩いている野良猫にも、実は喋れるんじゃないか、と思わず話しかけてしまうくらいだ。
ふとセロの首元を見てみれば、首輪からチェーンで繋がれた指輪がぶら下がっていて、
「それ、もしかして…….」
と呟くように僕は口にする。
「お前の指輪だ」
セロはじっと僕を見つめながら、
「真帆が自分では失くしてしまうかもしれないからって、俺の首輪に無理やりぶら下げやがったんだ」
ふん、と鼻を鳴らすセロに、僕はその頭を撫でながら、
「ごめんごめん。その指輪、恋愛成就の魔法が掛かってるせいか、眼に入るとどうしても脳裏に真帆の姿が過ってさ、何にも手が付けられなくなっちゃうから……」
「まったく、加帆子も難儀なものをお前らに渡したもんだな」
呆れるように言ってから、けれど、とセロは指輪に前足をやりつつ、
「……真帆はずっとこの指輪をつけ続けているぞ。お前との約束に反してな」
「え、どういうこと?」
首を傾げる僕に、セロは、
「真帆の奴、あの指輪を外してから三日ももたなかったんだ。自分で指輪を外したくせに、指輪が無いことに一瞬焦って、探そうとしてしまうんだって言ってな。結局すぐに、また指輪を嵌めてしまったよ。あの指輪を嵌めている限り、少なくとも安心するんだそうだ」
「――でも、今日はしてなかっただろ?」
「今日はな」
とセロは頷いて、
「お前と交わした約束がある手前、恥ずかしかったんだろうさ。それに、少なくとも今日はお前が居る。指輪などなくとも、お前がいれば真帆にとって、そっちのほうが大切なのさ」
「あ、あぁ……そうなんだ」
あの真帆が、とは思いながら、しかし血の繋がった家族にすら見せたことのない真帆の姿を何度も眼にしてきている僕にとって、セロの言葉は酷く胸に突き刺さった。
……そう、そうなんだ。
真帆は僕のわがままの為に、ずっと我慢して待ってくれているのだ。
そう思うと、何だか申し訳なさでいっぱいだった。
思わず大きくため息を吐き、セロの首輪にぶら下がる指輪を指先で撫でながら、
「そっか。真帆が――なんか、ひどいことしてるのかな、僕」
小さくため息を吐く。
「――どうする? お前もこの指輪、持っておくか? もう慣れはしたが、正直、邪魔で仕方がない」
セロに言われて、僕はしばらく逡巡したけれど、
「……いや、いい。悪いけど、その指輪はしばらくセロが預かっていてくれない?」
「まぁ、お前がそれでいいなら、俺は構わないが……」
しかし、とセロは言ってそっぽを向きながら、
「真帆はどうする?」
そんなセロに、僕は、
「まぁ、近いうち、別の指輪を持ってまた来るよ」
「……別の指輪?」
目を丸くして、こちらに顔を戻すセロ。
僕は「うん」と頷き、
「それがあったら、たぶんもう、この魔法の指輪は必要なくなると思う」
「お前、それって――」
セロは口を開きかけて、けれど何度か瞬きをしてから、
「――いや、なんでもない」
言って小さくかぶりを振った。
それからふっとこちらに背を向けて。
「まぁ、お前がそうしたいっていうのなら、俺は黙って見ているだけさ」
しっぽを立てて、静かに部屋を出ていった。