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それは、今から十四年前のことだ。
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─────……
俺は十六だった。
高校に入学したばかりで、新しい環境に胸を躍らせていた。
真新しい校舎の廊下を歩くたびに、未来への希望が足元から湧き上がるようだった。
バスケ部に入部し、汗を流す日々は充実していた。
体育館に響くボールの弾む音
仲間たちの掛け声
そしてゴールを決めた時の歓声。
それら全てが、俺の青春を彩る輝かしい瞬間だった。
練習でへとへとになるまで身体を動かし、汗をタオルで拭いて、仲間と他愛もない話をする。
そんな何気ない日常が、何よりも尊い宝物のように感じられた。
あの頃の俺は、何の憂いもなく
ただひたすらにバスケに打ち込み、未来に夢を描いていた。
世界は、無限の可能性に満ちているように見えたのだ。
しかし、その平穏は唐突に破られた。
ある日
いつものように練習を終え、体育館の隅でストレッチをしていると
|女《じょ》バスのコートの方から、ひそひそと悪意に満ちた声が聞こえてきた。
何事かと目を向けると
数人の女子生徒が一人の女の子を囲み、陰湿な言葉を浴びせているのが目に入った。
その子の背中は小さく丸まり、肩は震え
顔は俯いていて見えなかったが、その怯えた様子から
どれほど心を痛めているかが痛いほど伝わってきた。
彼女の震える背中と、今にも零れ落ちそうなほど潤んだ瞳が俺の胸を締め付けた。
見て見ぬふりなど、できるはずがなかった。
正義感というよりも
ただ純粋に、目の前の光景が許せなかったのだ。
勇気を振り絞って間に入り、いじめを止めさせた。
俺の突然の介入に、いじめていた女子生徒たちは一瞬ひるんだが
すぐに憎悪のこもった視線を俺に向けた。
その瞬間から、いじめの矛先は容赦なく俺に向けられるようになった。
最初は些細な嫌がらせだった。
ロッカーに「死ね」「消えろ」といった嫌がらせのメモが貼られ
体育館シューズの中に画鋲が仕込まれていることもあった。
練習中には、わざとボールをぶつけられ、陰口が飛び交った。
〝あいつ、調子乗ってんじゃね?〟
〝オメガの肩持つとかマジ引くわ〟
〝αのくせに情けねえ〟
そんな言葉が、まるで毒のように俺の耳にまとわりついた。
最初は耐えようとした。
バスケが好きだったから。
この居場所を失いたくなかったから。
しかし、日に日に精神的に追い詰められ、身体が鉛のように重くなった。
朝、目覚めるたびに
今日の練習が、今日の学校生活が
どれほどの苦痛を伴うのかと考えるだけで、胃の腑が締め付けられた。
体育館に行くのが苦痛でたまらなくなり、足がすくむようになった。
練習中にミスをすれば、嘲笑が聞こえる気がした。
誰も助けてくれない
誰も俺の味方をしてくれない。
そんな孤独感が、俺の心を深く深く蝕んでいった。
結局、バスケをする気力も失せ、部活を辞めることを決意した。
それは、俺の人生において初めての大きな挫折だった。
そして、それが母親の機嫌を決定的に損ねるきっかけとなった。
あの人は一度怒り出すと、まるで嵐のように荒れ狂った。
その声は、耳をつんざくような雷鳴のようで俺の全身を震わせた。
誰の声も耳に入らず、ただひたすら俺を罵倒し続けた。
「お前は役立たずだ」
「こんな成績で恥ずかしくないのか」
「優秀なαのくせに示しがつかない」
「弟みたいな出来損ないになる気?」
「恥さらし」
毎日、そんな言葉の礫が、俺の心を深く傷つけた。
その言葉は、刃物のように俺の自尊心を切り裂き
魂を削り取っていった。
家は、もはや安らぎの場所ではなかった。
むしろ、いつ暴風雨が吹き荒れるか分からない
恐怖に満ちた戦場のようだった。
息を潜め、母の顔色を窺いながら過ごす日々は
まるで地獄だった。
父はもうその頃には家にいなかった。
ある日突然、父の存在が家から消え去ったのだ。
母の口から「出ていった」のか「追い出した」のか、真実はわからないままだ。
ただ、父の書斎は物置になり
父が使っていた食器はいつの間にか姿を消し
父の匂いも、記憶も、全てが家から拭い去られたようだった。
俺たちには、どこにも逃げ場がなかった。
母の支配は絶対で、その重圧は息苦しいほどだった。
まるで、分厚いガラスの壁に閉じ込められ
外の世界の光も空気も届かないような感覚だった。
そんなある日のこと
リビングで夕食の準備をしていた母は、唐突に
まるで今日の献立を告げるかのように淡々と言った。
「そうそう、今度楓を預けることにしたのよ」
その声には、何の感情もこもっていなかった。
“預ける”なんて言葉を
俺はその時、本気でじようとしていた。
じなければ、もっと恐ろしい現実が待っている気がしたからだ。
だって、疑ったらきっともっと悪いことが起こると思った。
母の言葉の裏に隠された真意を、無意識のうちに拒絶しようとしていたのだ。
俺が口を挟めば、怒りの矛先は
無垢で、まだ何も知らない弟・楓に向かうだろう。
それは何としても避けたかった。
楓だけは、この嵐から守りたかった。
それでも、胸の奥底で警鐘が鳴り響いた。
心臓がドクドクと不規則な音を立て、全身に冷たい汗が滲んだ。
「預けるって……施設に?楓はどこも悪くないよ?学校の成績だって、少しずつだけど上がってるし……」
震える声で尋ねた。
喉がひどく乾き、声は掠れていた。
瞬間、母の目が、氷のように鋭くなった。
「なに口答えしてるの?楓は劣等種の劣等生なの。
貴方はまだ成績も優秀でトリプルαだからまだ愛せるけど、あの子はダメよ」
その声と視線は、俺の全身を凍りつかせ
呼吸すら困難にさせた。
「えっ」
母の言葉は、俺の耳にはじられないほど冷酷に響いた。
劣等種、劣等生
そんな言葉が、楓に浴びせられる理由がどこにあるというのか。
楓は、俺にとってかけがえのない、大切な弟だ。
いつも俺の背中を追いかけ、無邪気な笑顔で俺を癒してくれた。
そんな楓が、なぜそんな言葉を浴びせられなければならないのか、理解できなかった。
「出来損ないはこの家に居る価値もないの。だからちょっと、分からせてあげるだけよ?これも教育なんだから」
母の目の奥に宿る光は、ぞっとするほど冷たく
狂気に満ちていた。
それは、まるで獲物を狙う獣のような感情のない光だった。
その瞳には、俺や楓に対する愛情など、微塵も感じられなかった。
「…闇市にでも売ったら金ぐらいにはなるでしょ、あの子も」
「……っ!」
ただ、歪んだ支配欲と、冷酷なまでの合理性だけが宿っていた。
俺は怖かった。
心臓が凍りつき、全身の血の気が引いていくのを感じた。
母親が何をしようとしているのか、その言葉の裏に隠された恐るべき真実が
はっきりと分かってしまったからだ。
闇市、売る
その言葉が、俺の頭の中で何度も反響し、悪夢のような現実を突きつけた。
「……母さん…楓に、楓に何する気っ?」
俺の声は、恐怖と絶望で震えていた。
喉が張り裂けそうだった。
「なにって……使えない弟を社会に有効活用してもらおうって言ってるのよ」
「なっ……か、楓は物じゃないんだ…!!母さんはオメガをどうしてそんなに下に見るのさ…!希少種ってだけでどうして…」
俺は必死に訴えた。
楓は、ただのオメガではない。
俺の弟だ
血の繋がった家族だ。
そんな風に扱われるべき存在ではない。
「それが世界の摂理だからよ?あなただって学校で習ったでしょ、αやβより劣る存在だって」
母の言葉は、俺の反論を冷たく突き放した。
まるで、それが然の真理であるかのように。
その声には、一切の迷いも、感情もなかった。
「それはそうだけど…楓だって母さんの息子でしょ……!!」
「…なによ、これ以上口答えするならあんたもまとめて送ってあげるけど?兄弟仲良く、ね」
母の脅しに、俺の喉はひゅっと音を立てた。
俺だけならまだしも、楓まで巻き込まれるのは絶対に嫌だった。
俺が反抗すれば、楓の状況はさらに悪化する。
その可能性が、俺の心を縛り付けた。
「…楓を危険な目に遭わす気なら……連れてけば」
俺は、精一杯の抵抗を試みた。
せめて、俺も連れて行かれれば、楓を守ってやれる
そんな淡い希望を抱いたのだ。
しかし、母の次の言葉は、俺の抵抗を打ち砕いた。
「ふっ…随分と生意気になったのね、傑も。貴方、オメガの女の子を助けたせいで嫌がらせ受けて部活やめたんでしょ?」
「!な、なんでそれ知って……」
俺は驚愕した。
部活を辞めた理由は、母には話していなかったはずだ。
どこからその情報を手に入れたのか。
母は、俺の弱みを握っていることを誇示するかのように、冷笑を浮かべた。
その顔には、勝利を確信したかのような薄ら笑いが浮かんでいた。
「…楓のために優秀な貴方が庇う必要はないってことよ。楓は私のゼロから教育も拒むし反抗的だし、ヤクザにでも引き渡して恐怖心を覚えさせる方が丁度いいのよ」
母の言葉は、俺の心を深く抉った。
楓が、母の言う「教育」に反抗していたことなど、俺は知らなかった。
そして、その「教育」が、どれほど歪んだものだったのか
このとき初めて理解した。
それは、教育などではなく、ただの支配と虐待だったのだ。
「リプスレって集団の溜まり場って噂の廃ビルがこの近くにあるようだからね、馬鹿な楓をそこに連れて行きなさい」
「…!そ、そんなの、するわけないだろ……っ!」
俺は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
そんな場所へ、楓を連れて行くなど正気の沙汰ではない。
そこがどんな場所か、具体的には知らなかったが
その言葉の響きだけで、危険な場所であることが容易に想像できた。
「あら、いいの?さっきのバスケ部の女の子の母親なら、交流があるんだけどね?」
母は、俺の最も弱い部分を突いてきた。
あの日のいじめから守った女の子。
彼女の未来を、俺の手で壊すことなどできなかった。
「……っ、あの子を巻き込まないでくれ…!」
「あの子は…大会も近いし、女バスのメンバーの期待の星って言われてるんだよ」