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彼女がバスケに打ち込む姿を、俺は知っていた。
だから彼女の努力を、俺が台無しにするわけにはいかなかった。
「だから?そんなの引きずり下ろしてやるわよ、今度授業参観もあることだし…ママ友を始めとして、あることないこと流してあげるわ」
「ぜ、絶対にダメだ!そんなこと…!」
「あとはそうねぇ……もっと、楓が壊れるようなことをしてもいいのよ?」
母の言葉は、俺の心に重くのしかかった。
楓が壊れる。
その想像は、俺の心を打ち砕くには十分すぎた。
楓の笑顔が、純粋な瞳が
恐怖に歪む姿を想像するだけで、全身が震えた。
「……っ、それ、だけは……」
「なら、分かるでしょ?」
逆らえなかった。
俺の心は、完全に折れていた。
俺が黙って言うことを聞けば、楓がそれ以上”の目に遭わずに済むなら───
それだけを考えて、俺は母の命令に従うしかなかった。
この選択が、どれほどの後悔と苦痛を伴うか
その時の俺はまだ知る由もなかった。
次の日
俺は言われたとおりに楓を廃ビルの近くまで連れていった。
「ちょっと遊びに行こう」と、精一杯の笑顔を作って。
その笑顔は、ひどく引きつっていたに違いない。
口角は無理やり吊り上げられ、目は笑っていなかっただろう。
心臓は鐘を鳴らし続け、胃の腑は鉛のように重かった。
一歩踏み出すたびに、足が震えた。
弟は何の疑いも持たず、無邪気に俺のあとをついてきた。
その小さな背中を見るたびに、俺の心は千々に砕けた。
楓は、俺の前を歩きながら
「兄ちゃん、どこ行くの?」と楽しそうに尋ねた。
その純粋な声が、俺の胸に突き刺さった。
これが、楓との最後の時間になるかもしれないという予感に、胸が締め付けられた。
この手を離したら、もう二度と楓の笑顔を見ることはできないかもしれない。
そんな恐怖が、俺の全身を支配した。
でもそれが、最後だった。
廃ビルの手前、人通りの少ない路地裏で俺は楓に
「ジュース買ってくる…ちょっと、待っててくれるか?すぐ戻るから」
とだけ言い残してその場から離れた。
楓は「うん!待ってるね!」と元気よく返事をした。
その声が、今でも耳に焼き付いている。
俺は、草むらに隠れて、息を潜め、楓を凝視していると
まるで悪夢が現実になるかのように、廃ビルの前に、一台の黒い車が音もなく停まった。
中から数人の男が出てきて「またガキが迷い込んでんぞ」と、楓に近づいていく。
楓は、最初は戸惑ったような顔をしていたが
次の瞬間には、男たちに無理やり車に押し込まれていった。
楓の小さな手が、虚空を掴むように伸ばされたのが見えた。
その瞳に宿る恐怖と、俺を呼ぶ声にならない叫びが、俺の脳裏に焼き付いた。
俺は声を出せなかった。
喉がひどく締め付けられ、呼吸すらままならない。
足も動かなかった。
得体の知れない予感が、胃の腑をじわりと締め付ける。
まるで、地面に根が生えたかのようにその場に縫い付けられてしまった。
何をしてるんだ、止める、走れ、助ける──
頭の中で、もう一人の自分が叫んでいた。
しかし、身体は石のように固まり指一本動かすこともできなかった。
ただ、目の前で繰り広げられる悪夢を呆然と見つめることしかできなかったのだ。
車がエンジン音を立て、ゆっくりと動き出す。
楓が中にいる。
このままでは、本当に楓を助けられなくなる。
ようやく身体が動くようになると、俺は無我夢中で車を追いかけた。
どこへ向かっているのかも分からず
ただ楓を助けたい一心で、必死に走った。
肺が焼け付くように痛み、足は棒のようだったが
それでも止まるわけにはいかなかった。
息を切らし、ようやく辿り着いたのは「LABO」と書かれた古びた廃ビルだった。
錆びついた鉄骨が剥き出しになり、窓ガラスは割れている。
ここが、楓が連れてこられた場所なのか。
俺は、その場から立ち去ることもできず
それでも楓が心配で
廃ビル近くの草むらで膝を抱えて震えて座り込むことしか出来なかった。
空は鉛色に曇り、俺の心と同じように重く沈んでいた。
雨が降り出し、冷たい雫が俺の頬を伝った。
それは、雨なのか、それとも俺の涙なのか
もう分からなかった。
どれくらいの時間が経過しただろうか。
何十分か、あるいは何時間か。
永遠にも感じられるような時間が過ぎたころ
ポケットの中で携帯電話が震えた。
楓からだった。
その瞬間、全身に電気が走ったような衝撃を受けた。
俺はすぐに電話に出た。
「もしもし、かえ、で…?」
俺の声は、安堵と恐怖と、そして罪悪感で震えていた。
楓の声を聞けたことに安堵し
同時に、楓がどんな目に遭っているのかという恐怖と、俺がこんな状況に追いやったという罪悪感が俺の心を苛んだ。
楓の声は、ひどく弱々しく、か細かった。
「兄、ちゃん……」
その声を聞いた瞬間
俺はすぐにさっきのビルへ向かった。
雨は止んでいたが、空はまだ重く垂れ込めていた。
楓はそのビルに背中を預けて足を伸ばして座り込んでいた。
その顔は、薬でも盛られたのか、高熱でもひいたように火照っていた。
瞳は潤み、焦点が定まらない。
まるで、深い闇の底から這い上がってきたかのような、痛々しい姿だった。
「楓……っっ!」
俺は駆け寄り、楓の体を支えた。
その身体は、熱を持っているのに、震えていた。
「兄、ちゃん…たす、けて」
楓は、か細い声でそう呟くと
俺の胸に抱きついて、子供のように泣きじゃくった。
その小さな体は、恐怖と混乱で震えていた。
楓の涙が、俺の胸元を濡らした。
その温かさが、俺の心をさらに締め付けた。
(最低だ、俺………)
俺は、自分自身を激しく責めた。
楓をこんな目に遭わせてしまったのは、他ならぬ俺だ。
俺が、母に逆らえなかったからだ。
俺が弱かったからだ。
小さな弟を、守ってやれなかった。
その事実が、俺の心を深く、深く抉った。
俺はすぐに楓を背中に背負い、家まで連れて帰った。
楓の体は、驚くほど軽かった。
その軽さが、俺の罪悪感を一層深くした。
まるで、俺の背中に乗っているのは楓の身体だけではなく
俺の犯した罪の重さそのものであるかのようだった。
家に着くまでの道のり、楓は時折うなされ
小さな声で何かを呟いていたが、俺には聞き取れなかった。
ただ、その震えが、俺の背中を通して伝わってきた。
家に入ると、母さんは出かけているのか
部屋はしんとしていた。
静寂が、かえって俺の心を重くする。
俺は楓の部屋に入り、ベッドまで楓を運び、そっと寝かせた。
楓の背中を支えながら、抑制剤と水を飲ませた。
楓は、薬の効果か、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
やがて、俺の腕の中で、すやすやと眠り始めた。
その寝顔は、まるで何もなかったかのように穏やかで
この穏やかな寝顔が、どれほどの苦痛の後に訪れたものなのか。
俺はそっと楓をベッドに寝かせ
布団をかけて、起こさないように部屋を出た。
リビングへ向かうと、キッチンにはいつの間にかエプロン姿の母さんが立っていた。
その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
まるで、何もなかったかのように、平然とそこに立っている。
「楓、わざわざ連れて帰ってきたのね。捨ててくれば良かったのに」
その言葉を聞いた瞬間、さすがの俺も堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけんな…!!親の言うことかよ……っ!!」
怒りが全身を駆け巡り、俺は初めて母親に対して声を荒らげた。
しかし、それは無駄だった。
「はあ?なんであんたがそんなに必死になるの?自分の意思で協力したんじゃなかったの?」
母は、まるで俺の怒りなど意に介さないかのように冷たく言い放った。
その声には、嘲笑の色が滲んでいた。
「別に私が脅したことにしたっていいけど、真実を知ったら貴方も敵だと思ってあの子は完璧に孤立していくだけね。ふふふっ」
最初からそうなるよう仕組まれていたんだと気づいたのは、そのときだった。
俺が楓を連れて行くことを拒めば、母はあの女の子を巻き込み、楓をさらに追い詰める。
そして、俺が楓を連れて行けば
楓は俺を裏切り者だと認識し、孤立する。
どちらに転んでも、楓は傷つき、俺たちは引き裂かれる。
母は、最初からその結末を望んでいたのだ。
俺と楓を、完全に分断するために。
俺は、死んだほうがましだと思った。
こんなことをしてしまった自分を、許すことができなかった。
いや、誰も、許してくれなんかしないだろう。
死んでも償い切れない罪を犯してしまったのだと悟った。
俺は楓を裏切った。
その事実は、俺の魂に深く刻み込まれた。
だが、楓に真実を打ち明けることも、謝ることもできなかった。
真実を話したところで、何が変わる?
ただ傷を深くするだけじゃないか、と。
ただ、楓に拒絶されてしまうだけじゃないか、と。
俺は弱すぎた。
母に脅されたからといって、大切な弟一人も守れなかった。
家庭でも社会でも肩身の狭い思いをしている大事な弟を、守ってやれなかった。
その事実が、俺の心を深く、深くんでいった。
それは、まるで身体中に毒が回っていくような
じわじわとした苦痛だった。
それから俺は、楓が誘拐されたときの悪夢と
楓が俺の胸に抱きついて「助けて」と泣いたときの夢を、毎日のように見るようになった。
夢の中で、俺は何度も楓の手を掴み損ね、楓の悲痛な叫びを聞く。
そして、はっと目が覚めるたびに
喉元まで迫り上がってくるような後悔に、息を呑んだ。
楓が俺のことを「最高の兄ちゃん」と言ってくれる
たびに
胃のあたりが、ずしりと鉛のように沈んだ。
その言葉は、俺にとって、最も甘く
そして最も苦しい呪いとなった。
楓の純粋な言頼が、俺の罪責感を一層重くする。
俺は、楓に嘘をつき続けなければならない。
この秘密を抱えたまま、生きていかなければならない。
その重圧が、俺の心を押し潰しそうだった。
十四年が経った今でも、あの日の出来事は鮮明に、まるで昨日のことのように思い出される。
楓の震える背中、母の冷酷な言葉
そして、車に押し込まれる楓の小さな姿。
全てが、俺の心に深く刻まれた傷跡として、消えることなく残っている。
俺は、あの日の自分を、決して許すことはできない。