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#海辺の町
#ワンナイトラブ
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私は足早に歩いて一階のフロアを目指した。早く資料とやらをもらって、さっさと戻ってきた方がいいと思うから、ますます足は速くなった。階段を降り、さらに廊下を進んで、報道部のあるドアの前にたどり着く。
土田から「殺気立っている」と聞いていたせいで、中に足を踏み入れるのを躊躇した。ドアの隙間から恐る恐る中の様子をうかがうと、確かに殺気だった空気が漂っている。
しかし、私は意を決して足を踏み出した。事前に確かめた席次表を思い浮かべながら、目的の席をまっすぐに目指して歩いて行く。そこに座る後ろ姿に、私はあえて元気よく声をかける。
「長谷川さん、お疲れ様です!」
彼は前かがみになってパソコンに向かっていた。私の声に気怠げな様子で振り返り、胡乱気な目を向ける。
「誰?」
「編成広報局の川口と言います。電話ではお話ししたことがあるのですが、お会いするのは初めてだと思います。広報デスクの佐竹さんから、今週末分の番組資料を受け取ってくるようにと言われて来ました。もう、できあがっているはずだから、と」
「あぁ、週末のね。ていうか、電話って……」
長谷川は記憶を掘り起こすかのように、私をじろじろと眺めまわし、あぁ、と思い出したように声を上げる。
「この前、天気予報のデータソースのことで話した時の人か?そう言えば、佐竹から聞いてたっけ。年明けから派遣さんが来るんだって。君がその人なわけね。あぁ、それで資料だっけか?あともうちょっとでできるんだ。悪いんだけど、少しだけ待っててくれる?」
「はい、分かりました」
私は頷き、彼の席の後ろの壁まで下がってそこに立った。長谷川の作業を待つ間、そこからフロア全体を見渡した。あちこちで電話が鳴り、人が行き交う賑やかさは、私の席があるフロアとは全然違う。部署によって違う雰囲気を興味深く思いながら、フロアの様子をぼんやりと眺めていた中、奥まった部屋に目が行った。何の部屋だろうと思った時、その扉が開き、長身の男性が出て来た。矢嶋だった。
まずいと思った。こんなにたくさんの人がいる中で、しかも、あっちとこっちでだいぶ離れているから、彼が私に気づくことはないだろうとは思う。けれど念のため、近くにあった観葉植物の傍までじりじりと移動し、その大きな葉の影に隠れた。
「派遣さん、お待たせ。できたよ。ん?なんでそんな所にいるんだ?」
「あ、いえ。別に。あはは……」
私は笑ってごまかし、長谷川が差し出した資料に手を伸ばした。
「資料、ありがとうございました」
「どういたしまして」
用事は終わったとほっとした。矢嶋が私に気づかない今のうちにさっさとここを出ようと、私はそそくさと長谷川の前から立ち去ろうとした。
ところが、まだ私がそこにいるというタイミングで、長谷川が矢嶋に向かって大声で話しかけた。
「矢嶋!編集作業は終わったのか?」
しまったと思った同時に、矢嶋の目が私を向いた。
私に気がついた彼の目が、大きく見開かれたのが分かった。そして彼の顔にはこう書かれていた。
――どうしてお前がここにいるんだ?
「あ、あのっ、長谷川さん。私はこれで失礼します」
「うん、ご苦労様。訂正とかあったら言って」
返事もそこそこに、私は長谷川に慌ただしく頭を下げて、くるりと身をひるがえた。足早にその部屋を出て、二階に向かう階段を一段飛ばしに昇る。その間中頭に浮かんでいたのは、ひどく驚いた矢嶋の顔だった。
この遭遇によって、今後も社内で彼に会うことは絶対にないと、言い切れなくなってしまった。
編成広報局へと続く廊下を歩きながら、それならば、と考える。
もう諦めて、彼には挨拶の一つもしておいた方がいいのかもしれない。そうすれば、今後、逃げ隠れする必要がなくなる。
しかし、落ち着いてよくよく考えてみれば、職場という公の場所で、多忙な彼が、いちいち私に絡んできたりはしないのではないか。
いずれにしても、もしも今度また、偶然にも顔を合わせることがあったら、その時は、彼に付け入る隙を与えないほど堂々とした態度で挨拶してやろうと、心に決めた。