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それから一週間ほどがたったその日、いつも通りに出社した私を局長の中沢が呼ぶ。
「おはよう、川口さん。昨日の夜、報道制作の方からお願いされたんだけどね。次の金曜日から週一で当面の間、向こうの手伝いに行ってほしいんだ」
突然の話に、私は目を瞬かせて中沢の顔を見た。
「向こうというのは、報道部さんの方、ということでしょうか?」
報道部と言えばその名称の通り、ニュースを担当している部署。そんなすごい所で私にできることなどあるのだろうかと不安に思う。
「いや、報道じゃなくて、制作部の方の番組のお手伝い。うちの局がラジオ放送もやっていることは知っているよね?お願いしたいのは、リスナーからのリクエストの聞き取りと、あとは番組絡みの雑務的なお手伝いだそうだ。金曜日に来ていたアルバイトの子が急にやめることになったそうでね。もともと二人一組でやってもらっていたらしくて、他の曜日のバイトの子たちにお願いしてみたけど、みんなその日は都合が悪いんだそうだ。その人の代わりを探すにしても、なかなか急には見つからないだろうということで、派遣の君にお願いできないかと相談があったんだ。時間は、午前中の一時間半から二時間くらいだそうだ」
私はおずおずと訊ねた。
「そうなると、こちらでの仕事は……」
「まぁ、週一のことだし、当面って言ってたからね。それも含めて仕事の割り振りを考え直すから、大丈夫だよ。もともと社員だけでやっていた業務もあるわけだからね」
中沢がそう言うのであれば、問題はないのだろう。それ以前に、これはすでに決定事項なのだろうと思われた。
「分かりました」
「詳しい話は、午後にでも制作部の方に行って直接聞いてきてくれるかな?担当は辻っていう人ね。二時頃には席にいるって言っていたから」
「辻さん……」
聞き覚えのある名前だと思った。サークルのだいぶ上の先輩の中に、矢嶋の他にもここで働いている人がいたような気がする。
「では、時間になったら話を聞きに行ってきます」
「――ということで」
中沢はおもむろに立ち上がり、部下たちの顔を見ながら言った。
「聞こえていたと思うけど、当面、毎週金曜の午前中は川口さんが二時間くらい抜けることになる。当面というのがどれくらいの期間か、今のところ未定だが、その間の業務の割り振りを多少変更しようと思う。みんな、そのつもりでよろしく頼んだよ」
彼の隣に立ったままだった私は、その場にいる皆に向かって頭を下げた。その後席に着いて、今日の分の仕事を始める。あっという間に時間が過ぎて昼となり、昼食を食べて席に戻った私は壁掛け時計に目を向けた。間もなく時計の針が、一時四十五分を指し示そうとしていることに気がついた。ぼちぼち制作部へ向かった方が良さそうだと思い、私は筆記用具を手にして席を立ち、中沢の元へ行き断りを入れる。
「報道制作局へ行ってきます」
「あぁ、よろしく」
廊下に出た私は、報道制作局へと向かった。
その部屋はひと続きとなっている。この前お使いで行った報道部の奥に制作部があり、その隣にアナウンス室があるという配置だ。つまりそれは矢嶋に会う確率が高いことを意味している。
そのため緊張してはいたが、今日はもう心の準備ができている。先日考えた通り、もしも彼に会ってしまっても堂々と、にっこり笑いながら大人の対応をすればいいのだ。あの時は突然のことで動揺してしまったが、今回は会うかもしれないことを前提にして、ここにたどり着くまでの間にシミュレーション済みだ。
目的の部屋に足を踏み入れた私は、頭に入れてきた席次表を思い出しながら、辻を探した。二時頃には席にいるという話だったが、その辺りには誰もいない。そこで、入り口近くにいた女性に聞いてみることにした。
「すみません、辻さんは今どちらでしょうか?」
「辻さん?……えぇと。あのテーブルの所にいる、眼鏡をかけた黒のトレーナーを着てる人よ」
彼女の目が示した方を見ると、パーテーションの向こう側に短髪の男性が座っていた。遠目に見覚えがあると思った彼は、腕を組んでテーブルの上にある何かを見ている。声をかけていいものかどうか迷っていると、近くを通りかかった長谷川が私に声をかけてよこした。
「こないだ来た派遣さんだよね?誰かに用事?」
「あ、長谷川さん。お疲れ様です。あの、辻さんに用があって来たんですが、今声かけてもいいのかな、と」
「辻さん?」
長谷川は私の視線をたどった。
「全然大丈夫だよ」
「そうですか。それじゃあ、行ってみます。ありがとうございました」
私は長谷川に礼を言い、辻がいるテーブルへと向かう。少し離れた所から、そっと声をかけた。
「失礼します。編成広報の派遣スタッフ、川口と言います」
男性は私を見て一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにぱっと目を見開き驚いた顔をした。
「夏貴ちゃんか!」
「やっぱり。辻先輩だったんですね」
私は彼に笑顔を見せた。名前を聞いた時にもしかしてと思った人は、やはりサークルの先輩である辻孝仁だった。彼は、私が学生だった時にはすでに卒業していたが、何かしらの集まりがある時にはよく顔を出していて、そのため面識があった。最後に会ったのは確か一年ほど前だったから、久しぶりの再会だ。
辻は椅子に背を預けて、嬉しそうに私を手招きした。
「そうかそうか。夏貴ちゃんが手伝ってくれるのか。とにかく、座って」
私は軽く会釈して、辻が示した彼の前の席に腰を下ろした。
「辻先輩、お久しぶりです。担当者の方の名前っていうのを聞いた時、あれってと思ったんです。先輩、ここで働いているって前に言ってましたもんね。とにかく、私でお役に立てるのか分かりませんが、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。そんなに難しい仕事じゃないと思うから大丈夫だよ」
辻は私の方へ身を乗り出すようにしながら、にこにこしながら話し始めた。
「それで、早速なんだけど、どこまで話を聞いてる?頼んでたバイトの子が急に辞めちゃって、それでお願いすることになったっていうのは聞いた?」
「はい。仕事内容は、毎週金曜の午前中、リクエストの電話を受け付けたり、あとはちょっとしてお手伝いだとか」
「そうそう。そんな感じ。別に難しそうじゃないでしょ?一回やれば分かると思うよ。しかし、夏貴ちゃんと仕事することになるなんて嬉しいな。矢嶋のおかげかな」
「矢嶋先輩、ですか?」
私は目を瞬いた。
「うん。矢嶋がここのアナウンサーだってことは知ってるよね?今回手伝ってほしいのって、あいつのラジオ番組なんだ。代わりの人をすぐにも探さないと、ってなった時に矢嶋が言ったんだよ。編成広報局に派遣社員がいるはずだから、もし可能ならひとまずその人にお願いして急場を凌いだらどうかって。後でどうしてそんなこと言い出したのかって聞いたら、あいつ、夏貴ちゃんが派遣社員として来ている、って言うわけ。知ってる人の方が頼みやすいだろうと思った、ってね」
「そうだったんですか……」
気づかないわけないよね――。
辻に曖昧に笑いながら、私は心の中で苦笑していた。長谷川の元に資料を受け取りに行ったあの日、あの時、矢嶋とはばっちり目が合ってしまった。その時の彼は、完全に私に気づいた顔をしていた。そして長谷川に聞けば、私がどこの部署にいるかなど簡単に分かったことだろう。
それにしてもと不思議なのは、どうしてわざわざ私を指名したのかということだ。派遣社員である私は、ある意味融通をつけやすく、使い勝手のいい立場なのかもしれない。しかしマスコミ、しかもテレビ局ということであれば、代わりの人間などすぐにも見つかりそうなものなのにと思う。
辻は私が疑問に思ったことを察したらしい。腕を組みながら話し出す。
「すぐに見つかるかっていうと、なかなか難しいんだよね。どんな人でもいいわけじゃないし。他の曜日の子たちにもお願いしてみたけど、みんなその曜日だから都合がついてるってところもあるらしくって、いい返事をもらえなくてね。月曜から金曜のその時間帯の番組って、毎回バイトさん二人に入ってもらってるんだけど、金曜の子はバイトに来てからまだ二か月くらいでね。当面一人でやってくれないかってお願いしたら、泣きそうな声出されちゃってさ。リクエストってメールでも受けてはいるんだけど、電話でのリクエストも実は結構多いんだよ」
「そうでしたか……」
辻の話に相槌を打ちながら、全くの初心者である私と、そのバイトの子との二人組で大丈夫なのだろうかと不安になる。
そんな私を安心させるように辻は笑った。
「大丈夫だよ。やることはさっきも言ったように、リスナーからの電話を取って、リクエスト曲を聞いて、コメントとかエピソードを聞き取るっていうだけだから。夏貴ちゃん、編成広報にいるんなら、視聴者電話も取ってるでしょ?たぶんそれよりも楽だと思うよ。ディレクターは俺だし、パーソナリティは矢嶋だし、気楽にやってもらっていいからさ」
「――分かり、ました」
説明がざっくりとしていてイメージがなかなか湧いてこないが、一度やってみるしかないと心を決める。それよりも、矢嶋の番組ということに不安を覚えてしまう。しかし、それを隠して私は辻に頭を下げた。
「期間中は頑張ります」
「うん。よろしくね」
辻は嬉しそうに笑い、それから頬杖をついて私を見た。
「夏貴ちゃんって、いつからここで働いてたの?俺、全然知らなかったよ。矢嶋だけ知ってたんなんて、ちょっとショック。俺にも教えてほしかったなぁ」
辻はわざとらしく不貞腐れたような顔をした。
「すみません。挨拶しそびれってしまって……。仕事に慣れるので精一杯だったので……」
「でも、どうして矢嶋は知ってたの?」
「偶然です。この前ここに来た時に遠目で顔を合わせただけですよ」
「あいつと個人的に連絡取り合ってて、それで事前に教えてあったってわけじゃないんだ」
「まさか、全然!ありえないです」
私は思わず声を跳ね上げて否定してしまった。
辻があははと笑う。
「そっか、ならいいや」
「いいって、何がですか?」
「ん?年明けの飲み会、俺もだけど矢嶋も参加しなかったし、夏貴ちゃんも来ないって聞いてたわけで。それなのに、どうして矢嶋だけが知っていたのか、と。俺だけ仲間はずれなのか、って悲しくなっちゃって。だけどその理由が分かってすっきりしたから」
そう言って辻は私に片目を瞑ってみせた。
私は真面目な顔を作り、彼を見た。
「念のためもう一度言うと、あえて辻先輩には言わなかったわけじゃないですから」
「分かった分かった。そんな、真剣な顔して言わなくて大丈夫だから」
「真面目に言わないと信じてもらえないかと」
辻はまぁまぁと私をなだめるように笑い、言葉を続ける。
「ま、とにかくだ。今週の金曜日……ってもう明後日だね。その日からよろしく頼むね。スタジオの場所を教えておかないとね。これから案内しよう。あ、それとさ。ここでは俺たちのこと、先輩って呼ばなくていいから。なんなら下の名前で呼んでくれてもいいよ」
「あはは、それはちょっと。さん付けで呼ばせて頂きます」
私が頷くのを見て辻は席を立つ。
それに続いて私も急いで立ち上がる。
私の傍まで来た彼は、私の背に手を添えて出入り口の方へ促した。
その時姿を見せた矢嶋が私たちに気づき、足早に近づいてきた。
目の前に立った矢嶋に辻は笑いかけた。
「お疲れ。夏貴ちゃんには、簡単に説明した。これからスタジオを案内してくるよ」
「そうですか」
矢嶋はちらっと私を見て、短く言った。
「お疲れさん」
その顔が不機嫌そうに見えた。しかしその理由は分からない。
次に会ったら堂々と挨拶しようと決めていたのに、その表情に出鼻をくじかれたようになって、私はおずおずと挨拶を返した。
「お疲れ様です。今回はよろしくお願いします」
矢嶋は私の挨拶に軽く頷いてから辻に言った。
「俺が案内しますよ」
「そう?それならお願いしようかな。あぁそうだ。言い忘れた」
辻は私の肩にぽんと軽く手を置いた。
「夏貴ちゃん、今度飲みに行こうな」
矢嶋の声が割って入った。
「辻さん。気安く女性に触れるのは今どきまずいですよ」
矢嶋のひと言にはっとする。
先輩が私のことを「女性」って言った――?
「まぁ固いこと言うなよ。可愛い後輩に久しぶりに会って嬉しくさ。そんなに怖い顔するなって」
「怖い顔なんてしてません」
すると辻がにやっと笑った。
「なんだよ、矢嶋。もしかしてヤキモチか?」
「違いますよ」
私がすぐ目の前にいるというのに、矢嶋は鼻で笑い肩をすくめた。
「俺がたこ焼きちゃん相手に、ヤキモチなんか、焼くわけないでしょう」
辻とは私も知り合いではあるとはいえ、他人がいる所でそんな呼び方をされて、腹が立つよりも先にひどく恥ずかしくなり私はうつむいた。
職場ではそんな呼び方はしないだろうと思っていたのに、彼を買い被っていただけだったみたい――。
「お前、夏貴ちゃんのこと、そんな風に呼んでんの?失礼な奴だな。可愛い後輩をいじめるんじゃないよ」
そう言って辻が私の頭を撫でた。まるで子ども扱いされているようで、これもまた別の意味で恥ずかしい。それに周りの目も気になる。
「辻さん、やめてください」
私は顔が熱くなったことを自覚しながら辻の手を払う。
「あはは、ごめんよ。あんまり可愛いから、つい」
悪びれない辻に、矢嶋が呆れた声で訊ねた。
「仲が良いのは分かりましたけど、それで?スタジオ、見せてきていいですか?」
「あぁ、頼んだ。じゃあ、夏貴ちゃん。金曜日にね」
「はい。お疲れ様です。行ってらっしゃい」
辻の姿を見送ると、矢嶋が不愉快そうな声で私を促した。
「行くぞ。着いてこい」
そんな言い方をされたら、私も不愉快になるんですけど――。
私は口をへの字に曲げて、彼の後を着いていった。