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はぁ……と、盛大なため息をついた寿と、状況がまだよく飲み込めていない瑠璃は、非常階段を降りていた。
社員食堂の階に近づくと、賑やかな声が聞こえてくる。
瑠璃は寿の袖をぐいっと掴んで足を止めた。
「寿」
「なによ」
「さっきのあれ……何?」
「黒木と佐川さなのお別れ会に、ビシッとけじめをつけてあげるための『はい、あなたの婚約者登場!』ってやつよ」
「て感じって……」
寿は瑠璃の額をペシッと軽く叩いた。
「あの場面に瑠璃だけがいたら、泣いて『はい、おしまい』って流れだったわよ」
「どういう意味?」
「あんた、草食系でハムハムしてすぐ諦めちゃうタイプでしょ」
「ハムハム……」
「そう!」
「ハムハム……」
「そうそう。さーて、何食べようかなーっと」
昼休憩も残りわずかで、食堂は比較的空いていた。
「げ。ほとんど売り切れじゃない」
「ないね」
「あんたのせいだからね」
食券販売機のボタンはほとんど〈売り切れ〉表示。
二人は仕方なくカレーライスの食券を取った。
銀色の器にご飯がこんもり盛られ、「もうおしまいだからおまけだよ」とスタッフが、ヒレカツを二切れずつ乗せてくれた。
「遅れてラッキーじゃん」
「まあね」
「で、ハムハムの次、教えてよ」
寿はスプーンをカレーにぐさっと刺し、瑠璃の白い頰を両手でぐにぐにと摘んだ。
「あんた、黒木に愛されてるわ。自信持ちなさい」
「そ、それはどうも……」
「佐川さなは黒木のことが好きだったみたいだけど」
「ええっ!」
瑠璃が勢いよくスプーンを上げた拍子に、福神漬けがボトボトとトレーに零れた。
「あんた、よく溢すわね」
「寿が驚かすからよ!」
「黒木はきっぱり断ってたわよ。浮気しないタイプだし、隠し事もできなさそう」
すると、寿の隣の椅子にゴツゴツした指先が置かれた。黒木だった。
カレーのトレーを持ったまま、口元が少しぎこちなく微笑んでいる。
「ここ、いいかな」
黒木が腰を下ろすと、寿は気まずそうにもぐもぐとカレーを食べ、水を煽るように飲んだ。
「寿、何急いでんの?」
「そ、そりゃほーへすよ、おひゃまでしゅから……」
「いいんだよ、村瀬さん。君にお礼を言いに来たんだ」
「お、お礼……ですか?」
黒木は苦笑しながら言った。
「いや、村瀬さんが来なかったら、むちゅーーはなくても、ぎゅーくらいはしてたかもしれないからね」
瑠璃はスプーンをカレーの器の中に落とし、寿は目を白黒させた。
「く、ろ……」
「冗談だよ、冗談」
黒木は笑って誤魔化そうとしたが、二人の冷たい視線に晒され、無言でカレーを食べ始めた。
モグモグ……
瑠璃は小さくため息をつき、黒木のカレーにヒレカツを一切れ乗せた。
「おまけです」
「は、はい」
「冗談でも、そんなこと言わないでください」
「ごめんなさい」
「寿が言うには、私は草食系ハムハムなので、もうこの人駄目って思ったら次の人に行っちゃうタイプらしいです」
「え……」
「浮気は厳禁です」
「すみません」
寿は心の中で思った。
(意外と瑠璃のかかあ天下かも……)
その頃、別のテーブルでは――
「佐川さん、大津って名前だったんだ」
「母親が再婚したの」
「いつ?」
「新潟から富山に異動になった頃」
「そうなんだ……」
奈良は胸に棘が刺さるような痛みを感じながら、佐川さなの横顔を見ていた。
「あのさ」
「なに」
「側にいて欲しい人がいなくなるのが怖いって言ってたの……あれ、黒木係長のことだろ?」
「……うん」
「だから中途半端に好きな人が丁度いいって言ったんだ」
「うん」
「そっか」
佐川さなは眼鏡を外し、目尻を拭い始めた。
堪えていた涙が溢れ出す。
奈良はそっとその肩を引き寄せ、黒い髪を優しく撫でた。
「もう一度、付き合おう」
「え……」
「もう一度、俺たち付き合おう。嫌?」
佐川さなは小さく首を振った。
「嫌じゃない……でも、瑠璃さんを選んだのに」
「ごめん。でも佐川さんのことも好きなんだ」
「どうしようもないクズ男ね」
「そうだよな」
「私も似たようなものよ。奈良くんを黒木さんの身代わりにしてたんだもの。最低だわ」
佐川さなは眼鏡の雫を拭い、艶消しの黒い口紅を奈良の手に握らせた。
「お気に入りなの。預かっておいて」
「分かった」
二日間にわたる北陸三県合同研修会は終了した。
終業のチャイムが鳴り、研修参加者たちが資料を片付け始める中、佐川さなは大きく息を吐いた。
(終わった……)
同僚の木倉に誘われたが、明日アポイントがあると言って先に帰ることにした。ポプラ並木の歩道を、アスファルトに目を落として歩く。
季節外れの白い綿毛のたんぽぽが揺れていた。
青信号が点滅し、赤に変わる。足が止まる。
(終わった)
踵を返して金沢支店まで走り、エレベーターのボタンを押したい衝動に駆られる。
一目でも、最後に会いたい。
(黒木さんに……会いたい)
けれど信号は無情に青になり、小鳥のさえずりが聞こえ始めた。金沢駅西口のコインロッカーから青いキャリーケースを取り出し、母親への土産を確かめる。
ひとりの部屋、ひとりの食事、ひとりの夜が待っている。
寂しさを引きずりながら新幹線改札へ向かうと――
「佐川さん」不意に声をかけられた。振り返ると、黒木と、その後ろに瑠璃が立っていた。
瑠璃は軽く会釈をした。
「黒木……さん」
「君の同僚の木倉くんに聞いた。この時間の新幹線だって」
黒木の優しい微笑みは、最後の別れを告げていた。
「会えてよかった」
「……」
「元気で、頑張って」
「はい」
北陸新幹線乗車のアナウンスが流れる。
「ありがとう」
「ありがとうございました」
佐川さなは振り返ることなく、エスカレーターに足を掛けた。
後ろ姿が、やがて見えなくなる。黒木と佐川さなを結んでいた糸は、とうに切れていた。
「付き合ってくれてありがとう」
「いえ」
「じゃ、行こうか」
「はい」
瑠璃と黒木はしっかりと手を握り合い、金沢駅のコンコースを後にした。
傾いた夕日が、二人の影を長く伸ばしていく。
「家で母さんがおでんを作って待ってるって」
「はい」
「今夜、泊まってくだろ」
「はい。お土産はいらないでしょうか」
「もう家族みたいなものだから。あ、でも父さんに日本酒買って帰ろう」
「じゃ、あんてに戻りますか」
「そうだね」
二人は横断歩道を回れ右し、金沢駅構内の土産物売り場へと歩き出した。