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#ヒューマンドラマ
Hp2
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内庫司の昼は、朝の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
壁の隙間から差し込む陽光は一段と強さを増し、空中に舞う微細な塵を白く照らし出している。
役人たちは昼餉の後の微かな微睡みを押し殺し、ひたすら木札を繰り、筆を走らせる。
その単調な音だけが、薄い壁に吸われていった。
その静寂の中で、縫季だけは、別のものに神経を尖らせていた。
卓に積まれた帳。配給の記録、倉の印、輸送路の調整――すべて整っている。
だが、何かが引っかかる。
(……この違和感は、何だ)
縫季は帳束の端の木簡を少しだけずらした。後で、もう一度精査する。
「監査吏。王太子殿下へ、本日の摘要を届けろ」
不意に上役の老官が、顎で出口を指した。
「……余計なことは言うな。数だけを、正しくだ」
「承知いたしました」
縫季は立ち上がり、差し出された木片を受け取った。
『内庫司・配給監査摘要。王太子府・政務の間へ持参』。
簡潔な命の裏側で、縫季の心臓が一度、強く脈打った。
――市場で声をかけられた、あの王太子と、ついに正式に会う。
帳の束を抱え、廊下へ出る。
内庫司特有の、古い木札と墨が混じった乾いた匂い。
だが、それが執務棟の奥へ進むほど、蜜のような『甘さ』へと変質していくのを、調整員の嗅覚は逃さなかった。
政務の間に控えた二人の衛士が、無言のまま扉を開いた。
中は、静謐という名の檻のようだった。
整然と並べられた筆、墨、帳。その中心に、彼がいた。
帝辛。
白と薄紅の王衣は、朝に見たときよりもなお、痛々しいほど整えられていた。
だが、不思議と威圧感はない。
背筋を真っ直ぐに伸ばしたその姿からは、むしろ客人を招き入れるような、静かな「迎え」の気配が漂っていた。
空気が、変わった。清澄で、どこか温かい。胸のざわめきが、静かに鎮まっていく。
(これが……帝辛の香か)
「内庫司の者か」
ふと、帝辛と目が合った。
帝辛の声は、想像よりも低く、深く響いた。
若さという輝きの裏に、巨大な版図を背負う者特有の重みが混じっている。
「配給監査吏、縫季と申します。本日の摘要をお届けに参りました」
縫季は膝を折り、深く頭を下げた。
調整員としての本能が、視線を伏せながらも周囲の情報を貪欲に拾い上げる。
逃げ道、外への通り口、風の動き。そして、帝辛自身の匂い。
(この人の香は、民を安堵させる)
帝辛の傍らに漂うのは、朝の市場に似た透明な空気だ。
だが、それはただ清いだけではない。
冷たい玉を掌で温めたときのような、体温を宿した静かな熱。
「顔を上げよ」
命じられ、縫季はゆっくりと視線を上げた。
目が合う。
鋭い。だが、それは刺し貫く刃ではなく、相手の嘘や迷いを、繭の糸を解くように丁寧に見極めようとする、純粋な知性の鋭さだった。
縫季は無意識に、心の奥の「扉」を閉じた。調整員として培った、自己を消し去る術。
(この人が……俺が知っている、あの帝辛なのか)
灯台の海で見た、絶望の淵で涙を流していた姿とは、あまりにもかけ離れている。
今の彼の瞳に、破滅の影はない。
あるのは、剥き出しの誠実さと、眩しいほどの責任感。
「摘要を」
帝辛が手を伸ばす。縫季が帳を差し出すと、彼は指先で簡の端を揃え、驚くべき速さで目を走らせた。
読み方は速いが、決して雑ではない。
必要な核心だけを瞬時に拾い上げ、不要な箇所では決して目を止めない。その姿は、朝、市場で民を救っていた時と全く同じ、完璧な「解決者」のものだ。
「柳渓村。運び筋は北の街道へ切り替えたな。……倉の印も揃っている。よい」
帝辛は短く頷き、次の行を追う。
縫季は、ここで切り出すべきか迷った。
執務棟へ近づくほど漂う蜜のような甘い香の違和感を。
しかし、老官の「余計なことは言うな」という言葉が楔となって喉に刺さる。
今はまだ、観測者であるべきだ。踏み込みすぎれば、この鋭い王太子に警戒される。
帝辛が帳を置いた。視線が、再び縫季の顔へ戻る。
「縫季。……北の州の出だと言ったな」
「はい」
「北は、風が荒いと聞く」
唐突な問い。だが、それはただの世間話ではない。
帝辛は、目の前の人間を「ただの歯車」として見ていない。
その者の背景、生活、その根底にあるものを知ろうとしている。
「冬の風は、骨まで冷えます。ですが、倉の火を守る者がいれば、米は守れます」
縫季が用意していた答えを返すと、帝辛の口元が、ふっと緩んだ。
それは朝の公的な笑みではなく、清朗と話していたときに見せた、年相応の柔らかな笑みに近かった。
――その瞬間。縫季の胸が、騒がしく跳ねた。
(……だめだ。思い出すな)
市場で見た、あの無防備な笑顔。
それが目の前の本物と重なり、縫季の視界を狂わせる。
だが、同時に。
(……完璧すぎる)
コメント
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第5話、読んだよ!縫季が王太子・帝辛と正式に対面するシーン、すごく緊張感があって引き込まれた。特に「完璧すぎる笑み」っていうタイトルが刺さったな。帝辛の優しさと責任感、でもその裏に潜む違和感とか、内部の「甘い香」の謎が気になる…。縫季が調整員としての本能と理性の間で揺れる感じ、すごく共感した。次、どうなるんだろう!🔥