テラーノベル
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セラセレアが血に濡れた槍を引き戻す前に、ソラマリアはその穂先の封印を剥がし取る。札には家鴨が拳を握る剽軽な絵が描かれていた。
「体内にあったとはな……」とソラマリアは忌々しげに呟く。「それで、今の不意打ちを外して、お前に勝算はあるのか?」
改めて血に渇いた処刑人の如く剣を構え、切っ先を新手の暗殺者に向ける。
ソラマリアとセラセレアはよく似ている、とはかつての第五局での評だった。事実、背格好は近く、ともに銀に喩えられる色味の薄い髪色だ。しかしそれは大雑把な印象であり、よく見るまでもなく違いは大きい。セラセレアの髪には軽やかな癖があり、その眼差しは柔らかく、その口元は閑やかで、起居振舞はかそやかな淑女だ。背の高さの割には幼い顔立ちであり、いつも厳めしい嵐の如きソラマリアの表情と比べれば、春も半ばの長閑で穏やかな微風の如き面差しだ。
「これは手厳しい」セラセレアは余裕そうに笑みを浮かべた。「ですが、その通りですね。あんた一人でもわたくしめには荷が重いのに、これでは……」
ソラマリアの元に仲間たちが集う。レモニカはソラマリアのそばでレモニカに変身する。
「おや、あんたが噂のライゼンの王女ですか」セラセレアは笑みを浮かべたまま不思議そうに眉を顰める。「ということはシャリューレさん。あんた、守るべき主君を最も嫌っているのですか?」
「お前には関係のないことだ」とソラマリアは冷静に言う。
その時、渦巻くような火の玉がセラセレアに目掛けて猟犬の如く飛び掛かり、しかしセラセレアは槍を振るって掻き消すように弾く。ベルニージュの不意打ちだ。
「積もる話は後でしてもらっていい?」とベルニージュは拒むように言った。
それをきっかけにソラマリアも獲物との距離を測り終えた蛇のように飛び掛かり、一息に距離を詰めた。剣と槍が克ち合い、夜闇に火花を咲かす。
「最も憎いならば殺してしまえばいいのに」とセラセレアがせせら笑う。
「お前のやったように裏切れと?」ソラマリアは吐き捨てるように言った。「悪いが殿下は私の最も大切な人だ!」
「では目を離すべきではありませんでしたね」
馬の嘶きとレモニカの悲鳴が冷たい空気を引き裂いた。前に嗾ける者を奪った黒馬がレモニカを咥え、ソラマリアを背後から突き飛ばし、セラセレアを騎乗させて逃げる。激しく地面を蹴っているが蹄の音はまるで聞こえず、影のように静かに走り去って行く。
「ユビス!」と叫んだのは連れ去られたレモニカ自身だ。
小川の方で待っていたユビスがすぐさま嘶きと共に駆け付けてきてソラマリアを乗せる。ユビスは黒馬を見据えると誇りを漲らせ、全身を弾ませて疾走した。夜の闇の丘陵を星々の輝きを頼りに追いかける。少なくとも前回のように木の枝を渡って逃げることは出来ない。黒馬は魔術を使っているが、それでも若干ユビスの方が速く、なだらかな丘を二つ越えた頃には追い付いた。
黒馬に騎乗する二人の内、前に跨る一人が後ろに手を伸ばしている。
「レモニカ様!」
ソラマリアが手を伸ばすが、その相手の姿がモディーハンナだと気づき、なおかつ手に封印を持っていることに気づいて手を引っ込める。態勢を崩しかけ、再び距離が開く。
「惜しい!」とセラセレアが楽しそうに言った。
レモニカはモディーハンナを嫌っている使い魔の封印を貼られ、モディーハンに変身させられた上で、その使い魔に憑かれているのだった。
「仕方ない、騎馬戦といきますか。あんたも手伝ってくださいよ」とセラセレアが【命じる】。
「真に申し訳ないのですが、この速さに追いつける鳥も魔法もありません」とレモニカは残念そうに言った。
「使えませんね。それじゃあ手綱は任せます」
そう言ってセラセレアは振り返り、曲芸師の如く鞍の上に登って屈む。槍を構え、迎え撃つ態勢だ。
「殿下を放せ!」
「何故憎き王女を助けようとするのです?」とセラセレアは嘲る。
「憎くなどない! 我が人生の導き、尊ぶべき王妃の忘れ形見を憎むものか!」
だがソラマリアはやはり自問自答する。ではなぜ最も嫌っているのか。一度も答えが出たことのない問いが、どこにもたどり着かない悩みが頭の中を駆け巡る。
「憎くはないが、嫌っている。嫌っているが愛している」セラセレアは知った風に頷く。「なるほどなるほど。わたくしめにも覚えのある感情です」
「お前に何が……」
分かるのならば、知りたい、教わりたいと思ったが口には出せなかった。
「わたくしめも幼い頃は、たった二人の家族だった姉さんが、どうにも煙たくて仕方なかったものです」セラセレアは自嘲するように嘲笑する。
ソラマリアは何も言えずにいる。教えを乞いたくなどないが、知りたくてたまらない。
「まだ分かりませんか? 好意と両立する嫌悪など限られているというのに」
「そんなものが……」
あるのか、ソラマリアには分からなかった。まるで答えを追い求めるように猛追するユビスが静かに疾走する黒馬に追いつきつつある。
「それは嫉妬ですよ」とセラセレアは断言した。「わたくしめに裏切られたあんたは、ヴェガネラ王妃のために救済機構を裏切ったのでしょう? あれから今日まで出会うことはありませんでしたが、ライゼンでの活躍はよく知っています。何せ第五局の諜報を一手に担う立場にいたものですから。差し詰め妹に母を取られてむくれる子供のように、ヴェガネラ王妃の娘が妬ましかったのでしょう」
それが真実だった。レモニカを攫う忌々しい敵の言葉が、長らく空白だったソラマリアの心の一角にぴったりと収まった。そしてあまりにも情けなく、恥ずかしい思いにソラマリアは暗闇の中で顔を赤らめ、身を竦ませる。そのような幼稚な感情に焦がれていたのかと自己嫌悪に陥る。季節も半ばを過ぎたことを知らせる秋の冷風が火照りを際立たせる。
「ソラマリア!」
レモニカの声に我に返り、眼前に迫った投げ槍を際どいところで手で受け止めた。しかし槍は赤熱しており、ソラマリアの掌を焦がす。急いで放り捨て、氷の呪文で冷やす。遥か後方で槍の転がる音が聞こえた。
「貴女だけではありません!」とレモニカが叫ぶ。「わたくしとて貴女が妬ましい! その強さも賢さも優しさも! 母の顔と声と愛を知る貴女が!」
「喋るなと【命じる】のを忘れていましたね」とセラセレア。「いや、【命令】するまでもありませんね。最期に一つ派手な悲鳴をあげて貰いましょうか」
投げ捨てたはずの火焔の槍が空から落ちてきてセラセレアの手に収まる。
「やめろ!」
「その分不相応の感情から解放してやりますよ、シャリューレ!」
未だ剣は届かない。氷の投げ槍はレモニカに当たりかねない。代わりにソラマリアは、
「セラセレアを殴れ!」と【命じる】。
するとセラセレアが振り下ろさんとする槍が変形し、拳の形になってセラセレア自身を殴り飛ばした。
落馬したセラセレアを捨て置き、ソラマリアはユビスを駆って黒馬に追いつくとレモニカに貼られた封印を剥がし、次いで黒馬に貼られた封印も剥がす。
「お怪我はありませんか? 殿下」
「ええ、助かったわ。ありがとう。ソラマリア。一体何が起きたの?」
「槍を受け止めた時に封印を貼っておいたのです」
「あれが手元に戻ると、魔法の槍だとよく分かったわね」
「ええ、奴は槍使いではありませんから。十中八九使い魔の魔法だろう、と」
かつての部下のことは名前だけではなく、その特技や口調、好物から癖までよく覚えていた。
封印を剥がされた黒馬は元々忠誠心があったらしく、セラセレアの元へ駆け戻り、立ち上がろうとする主に肩を貸す代わりに首を貸す。
「封印は殿下がお持ちになってください。守るものは一つの方が戦いやすいですから」
「貴女が貴女を守らないならば、わたくしが貴女を守りましょう」とレモニカは申し出を拒む。
「……分かりました。では、一枚ずつ。私には嗾ける者を。殿下は黒馬に貼ってあった封印を。おそらく馬を操る使い魔ですからユビスに跨って皆の元へお戻りください」
「相手は少なくとも槍と、そして今は拳闘の使い魔を持っているのよ?」
「ええ、たったの二枚です。他にもあるかもしれませんが、我々はその十倍近く持っているのですから合流すれば訳はありません。皆が追い付くまで私が奴を見張ります」
レモニカは諦めの言葉の代わりに溜息をつく。
「貴女もつくづく強情ね。いい? 決して無理はしないで」
レモニカとユビスは念のためにセラセレアから距離を取るように回り込んで、ユカリたちの元へと駆け戻った。
セラセレアはレモニカを目で追ったが、手出しはせず、ただ一言呟いた。「羨ましい限りです」
「ところで」とソラマリアは心の裡に語り掛ける。「お前の操る猛禽は役に立てるか」
「ええ、当然です。今だと夜目の効く梟になりますが、強化も出来ますし、自由自在に操れます。まあ、使い魔相手ですのであまり期待はしないでください。目くらましと盾にでも使えばよろしいかと」
「そうか。それは可哀想だから使えないな」
ソラマリアは右手で剣を引き抜き、左手に氷の槍を握る。
セラセレアは右手に三本、左手に一本、計四本の槍を握る。赫灼たる火焔の槍。毒液と瘴気を吹く槍。禍々しく枝分かれした棘の槍。そして大木の如き巨槍を軽々と持ち上げる。
「ようやくあんたと戦える日が来たのですね」とセラセレアが嬉しそうに言う。「あんたがライゼンの処刑を生き延びたと聞いてから、ヴェガネラ王妃の騎士として活躍していると聞いてから、王妃の死と共に表舞台を退いてから、ずっとこの日を待ち望んでいました」
「どうしてそれほど私を殺したかったんだ?」
セラセレアは苦笑する。
「これも嫉妬ですよ。蛇の如き、炎の如き、あんたのようになりたくてなれなかった憐れな女の妬み嫉みです」
セラセレアが次々に槍を放つ。火焔と瘴気が地面を走り、ソラマリアの左右に炎と瘴気の壁を立ち昇らせる。そして炎と瘴気に挟まれて逃げ場を失ったソラマリアにセラセレアは四本の槍を次々にかわるがわる投擲する。ソラマリアは身を捻って躱し、剣で弾き、槍で相殺した。しかし槍はよく訓練された鷹のようにすぐにセラセレアの手へと戻り、再び放たれる。それでもソラマリアは槍の雨を交わし、弾きながらもセラセレアの元へじりじりと近づく。
「本当に嫌になりますよ! 化け物め!」
「そう言ってくれるな。私にうんざりしているのは私もだ」
ソラマリアの頭に目掛けた槍も、胸や胴や足に向けて放たれた槍も全て躱す。ようやくソラマリアが対処できなかった攻撃は、巨槍が目の前の足下に突き刺さった時だけだ。ただセラセレアが仕損じたのか、目隠しにでもしたかったのか。
舞い上がった土埃に耐え、ソラマリアが巨槍の横から覗き込むと槍が掠めて飛び過ぎた。想定内だ。「シャリューレを殴れ!」という【命令】も含めて。
巨槍から人の形に変身した拳闘の使い魔の拳を難なく躱し、勢いを利用して組み伏せ、背中に貼られた封印を剥がす。そこへ飛来した棘の槍を両手で張り詰めた封印で受け止めて弾く。そして自らに封印を貼る。殴る者の魔術で舞い踊るような足さばきを得ると、最早セラセレアの槍に捉えられることはない。そして残り十数歩のところまで迫る。
「お前の考えは手に取るように分かる」
「あいつを殺せえええ! 穿つ者おおおおお!」
セラセレアは雄叫びと共に使い魔の本性の姿へと変じた。
大きな嘴を持つ頭に四枚の赤い翼が広がる。二本の腕は肘で枝分かれし、四本の手それぞれに四本の槍を握る。炎の外套はくねるように燃え立ち、枝のように華奢な紅蓮の両足がすっくと伸びる。
四本の槍が同時にソラマリアを迎え撃つ。大気を歪める火焔に大地を腐らせる毒液と瘴気が降り注ぎ、挟み込むように禍々しい棘の槍と堂々たる巨槍が薙ぐ。しかしソラマリアはその全てを躱しきり、一刀の内にセラセレアの胴を真横に両断した。再び変身しようとした下半身を踏みつけて腰の辺りに貼られた封印を剥がす。
そして上半身の方に目をやると、セラセレアにはまだ息があった。
「どうして私の打つ手を読めるんですか?」と掠れた声でセラセレアが呟く。
「私の副官だったお前にだって分かるだろう?」
セラセレアは血を噴き零しながら笑う。
「さあ? シャリーの考えなんて何も分かりませんね」
そうして元第五局焚書官首席セラセレアは息絶えた。ソラマリアはそばに跪き、その瞼を閉ざす。
「ついぞ分かり合えなかったが、お互いのことを分かっていたのはお前だけだ、セーラ」
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