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ガレインの夕暮れのように曖昧な古の国境の辺り、ルー王国北部の街避難民の地はまるで冬を前に早くも冬眠を始めたかのような不気味な静けさに包まれていた。確かに何かがいるが、人か獣か判然としない、そのような雰囲気だ。街の中央に陣取るのは栄えある者たちの守護神ガユロとその忠実な天使の一羽、天の虜囚を寿ぐ木像神殿で、やはり何者も活動している気配がない。ただしその屋根の上で、血の匂いに興奮した猟犬の如く一陣の風が逆巻いている。
風の中心ではグリュエーが両手足を使って均衡を保ち、宙に浮かんでいた。グリュエーの目の前のささくれ立った尖り屋根には使い魔醸す者が腰掛けている。貴族に供される鵞鳥のように丸々とした巨体に、体を支えられることが不思議なくらい細い手足が生えている。その輪郭は非人間的だが、紳士らしい衣服、目鼻立ちや髪、皮膚を見るに、それが醸す者の人間に化けた姿なのだ。丸々とした使い魔は虚ろな眼でグリュエーを見つめている。
「こんにちは」とグリュエーは隣人に挨拶でもするように気軽に話しかけた。そして風に負けないように少し声量を大きくする「おじさん、醸す者だよね? グリュエーと少しお話しようよ」
「お前さんが話に聞いた魔法少女かい?」と醸す者は僅かに警戒心を醸し出しながら言った。
醸す者が一言喋るたびに辺りに強烈な酒気が漂うが、風を纏うグリュエーにはほとんど届かない。
「ううん。グリュエーはユカリじゃないよ。けど仲間。皆は酒気の外、街の外にいるよ。酒甕でも引っ繰り返したの?」
「まあ、そういう魔法だ。街を酒甕にした、と言うのがより近いな」その声は水の枯れた井戸底から響くようだった。
「お陰でみんなくらくらだよ。こんなに沢山の酔っ払いを見たのは初めて」
そう言ってグリュエーは街を見渡す。ほとんどの者が地面に倒れ、幾人かはふらつく足取りであてどなく彷徨っている。
「そのみんなに、得体のしれない使い魔の所へたった一人送り込まれたのか?」とまるで責任ある庇護者かのように言う。
「うん。グリュエーは風で酒気を遠ざけられるからね。まあ、様子見だけのつもりだったんだけど。悪い人じゃなさそうだったから声をかけたんだ」
実際はグリュエー自身がやって来る前に一度風の偵察を送り込んではいる。敵対的では無さそうだ、と判断したのだ。
「話ってのは、説得ってことか? それで私が封印されることを受け入れると?」
「違うよ。どちらにせよ封印するとは思う」
「わっはっは」醸す者は大きな腹を抱えて、わざとらしく笑った。「それじゃあ何を話すってんだい?」
「かわる者によって解放されて、でもかわる者に与しないってことは、何かやりたいことがあるんでしょ? それを聞いておきたいなって」
醸す者は探るような眼差しをグリュエーに向ける。
「それはユカリの考えか?」
「そうだと思う。あとグリュエーも知りたい」
「手伝ってくれたりすんのかい?」
「内容によるかな。グリュエーたちもやらなきゃいけないことがあるからね」
醸す者は追い詰められた軍使のように腕を組み、小さく唸る。
「そうか。じゃあ話を聞いてくれるか? まあ座んなよ」と言って丸々とした使い魔は隣の黒ずんだ屋根を叩く。
「うーん。おじさん、酒臭いからなあ。……まあ、ずっと飛んでるのも疲れるし」
グリュエーは風に乗って、ふらふらと漂い、醸す者の隣に着地すると希望と期待に溢れた仔犬のようにちょこんと座る。
「どこから話すかな。あ、その前に一杯どうだい?」
醸す者が上着を広げると懐には沢山の酒瓶が吊り下げられていた。
グリュエーは首を振って固辞する。「グリュエーはお酒は飲まないよ、基本的に」
「子供だからか?」
「それもあるけど、ちゃんとお話を聞きたいからね」
「そうか」醸す者は少し残念そうに言って、少し嬉しそうに微笑んだ。「お前さんは正直者だな。だが悪いが私は飲むぞ。飲まないと正直になれないんだ」
「お疲れ様。大丈夫?」とベルニージュの声が降って来た。
グリュエーはいつの間にか寝転がっていて、ベルニージュが覗き込んでいる。少し心配そうにしていた赤い瞳が埋火のように微かな笑みを浮かべる。
「あれ? いつの間に寝たの?」
グリュエーは目を擦りながら臭い毛布を除けて身を起こし、欠伸を噛み殺す。
「醸す者の酒気にあてられたみたいだね。ユカリも寝てるよ」
グリュエーがいるのはワミリアの街の宿屋の一室で、別の寝台ではユカリが胎児のように丸まっていた。
「醸す者は?」
「ソラマリアさんとレモニカと一部の使い魔たちと食堂にいる。来る客皆に無限に酒を奢ってるみたいだね」
「そう、それなら良かった。これまでの人生? みたいなのを聞いてただけだけど。満足しているのならいいや」
どこまで聞いたかは覚えていない。どこから聞いたかも覚えていないが。
「ユカリがとても心配してたよ。それで、だから街に近づき過ぎて、今この状態なんだから」
ユカリのまだ赤みのある寝顔は何の表情も表していないが、寝息は少し荒いようだ。
「一応様子見の範疇だと思うけど。あとで謝っておくよ」
「それよりグリュエー、ちょっと聞きたいんだけど」ベルニージュは返事を聞く前に続ける。「風の操作が覚束なくなってない?」
「え? そうかな?」
「うん。観察してたら分かるよ。魔法に関して、ワタシには嘘つけないと思った方が良い」
「別に嘘なんて……」ついさっき正直者と言われた手前、グリュエーは少しむきになる。「醸す者の酒気を浴びたからかな」
「ここ数週間に渡って、だよ」
それはつまりノンネット宛の手紙に魂を分け与えて潜入させた辺りからだ。魂の分量が少なければその分制御も難しくなるのだ。
そのことは隠していたのであり、嘘をついたのではない、とグリュエーは自分に言い聞かせる。皆に心配をかけたくないし、特にユカリはグリュエーのこととなると普通以上に心配症になるきらいがある。
グリュエーの発言も沈黙もベルニージュの確信を深めるだけのようだった。
「本当に心当たりが無いなら」とベルニージュはゆっくりと言い聞かせるように言う。「他の皆にも聞いてみよう」
グリュエーは慌てて話し始めた、と思われないように平静を装って切り出す。「心当たりはある。でも、皆には黙ってて」
「特にユカリに?」
グリュエーは静かに頷く。
「何か無茶したんだね」
「ノンネットに送った手紙、あれに魂を乗せた」
クヴラフワで呪い除けに利用されていた魂無き護女たちのこと、護女自体にも聖女候補だけではない何かの思惑があるだろうことを伝えるための手紙だ。
ベルニージュは合点がいった風に何度か頷き、しかし最後には首を傾げる。
「ロガット市の? 襲撃した時に回収したのなら関係ないんじゃない?」
「回収してない。今もあの砦にあると思う」
ベルニージュは呆れた様子で口をぽかんと開く。
「教えてくれてたら回収したのに」
「手紙のグリュエーが使命を達成していたなら自分からグリュエーの元に戻って来たはず」
「逃げられない状況なのかもしれない」
「かもしれないけど、風に乗り移るだけで大概は脱出できるはずだから」
ベルニージュは今の言葉を検証するようにグリュエーを見つめる。
「なるほどね。確か無機物を喋らせるにはかなり魂を割かないといけないんだよね?」
「うん。ユカリ、というか魔法少女の喋る魔法は例外だけど」
グリュエーの思いとは裏腹にベルニージュは突き放すように言葉を紡ぐ。「やっぱり、皆に話した方が良い。いざという時にできること、できないことが共有されていないと全員に危険を及ぼすから」
「約束が違う!」
「約束なんてしてない」
そうだっけ? とグリュエーは会話を思い返すが、まだ頭の中は川下りの舟のように揺らいでいて思い出せない。
ベルニージュは畳みかける。「そんなことにも気づかなかったのは魂が減っているせい?」
「騙した方が悪い!」
「嘘もついてない」
グリュエーはそれ以上言葉が出て来なくて、自分を見下ろす赤い瞳を涙目で睨み上げることしかできなかった。
ベルニージュは気を張るのを止めて溜息をつく。
「分かったよ。じゃあこうしよう。折衷案。グリュエーの妖術が不安定になっているということは皆に話す。その原因については誤魔化す。それでどう?」
急に自分の子供っぽい振舞いに恥ずかしくなってグリュエーは俯いた。
「それでいい。ごめん」
「何を謝ってるの?」と言ったのはユカリだ。
グリュエーとベルニージュは驚いてもう一つの寝台の方を振り返る。丁度ユカリが身を起こすところだった。まだ体がだるいのか両手を突っ張って起き上がり、ただ座るにも腕で支えている。
「喧嘩してた?」とユカリはまだ仄かに赤みを帯びた顔で不安そうに尋ねた。
「いや、喧嘩というか意見の相違というか」ベルニージュは作り笑いを浮かべる。
「ベルニージュが魔法を失敗したんだよ」とグリュエーは言った。
ユカリは一気に眠気が覚めたようで目を見開いて部屋中を見回す。
「ベルが失敗!? 何!? 何したの!?」
何を言い出すんだと言いたげなベルニージュの視線がグリュエーの視界の端に刺さる。
「実験、の失敗で、グリュエーの妖術が弱くなっちゃった。一時的なものらしいけど」とグリュエーは嘘をついた。
後が怖いが出た言葉はもう呑み込めない。