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二日目の夜、眠りが浅かった。虫の声も、川のせせらぎも、静けさの中では逆にうるさく響く。
天井を見上げても、目は冴える一方だった。
時計を見ると、まだ午前一時。
こんな時間に起きていても仕方がない。
少しだけ庭に出て、夜風に当たろうと思った。
縁側を抜けると、空気は昼間とはまるで違っていた。
昼の山は緑と熱気に満ちていたのに、夜の山は色を失い、音も薄い。
月明かりが庭を淡く照らしていて、井戸の縁も白く浮かび上がっている。
……あの井戸は、夜のほうが形がはっきり見える気がした。
輪郭が澄んでいる。
光に照らされた石の表面が、まるで濡れているみたいに暗く光っている。
近づくと、ひやりとした風が足元を抜けていった。
昼間よりも冷たい。
その冷たさは、空気というより水の気配に近い。
おばあさんの言葉が頭をよぎる。
——夜は絶対に覗くな。
僕は立ち止まりかけた。
けれど、その冷気は今の熱をすべて洗い流してくれそうで、足は止まらなかった。
井戸の縁に手をかけ、中を覗き込む。
底は、やはり見えない。
ただ、水面らしき暗い揺らめきが、月明かりをわずかに飲み込んでいる。
……そのときだ。
水の底、闇の奥に、白いものが揺れた。
ゆら、ゆら。
形はすぐに分かった。手だ。
細く、骨ばっていて、皮膚は青白い。
指先がこちらを向いて、ゆっくりと揺れている。
僕は息を呑んだ。
けれど恐怖よりも先に、頭に浮かんだのは——涼しい、という感覚だった。
その手に触れれば、今の体温も頭の中の熱も、一瞬で消えてしまうような気がした。
気づけば、僕は片手を井戸の中へと伸ばしていた。
指先が水面に触れる。
氷より冷たい。
けれど痛みではなく、熱を吸い取る心地よさがあった。
吸い込まれるように、さらに指を沈める。
その瞬間、白い手がぴくりと動いた。
ほんのわずか、こちらに近づいたのだ。
心臓が跳ねた。
反射的に手を引き、後ずさった。
庭の空気が急に湿って、背中に冷たい汗が張り付く。
井戸の中を見たが、もう白い手は見えなかった。
水面だけが、月明かりを小さく波立たせていた。
布団に戻っても、あの手の感触は消えなかった。
冷たさと柔らかさが、皮膚の奥に残っている。
目を閉じれば、暗い水底に揺れる手が浮かんでくる。
怖いはずなのに……なぜだろう。
僕はその冷たさをもう一度味わいたいと思っていた。