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翌朝、目を覚ますと手首が妙に冷たかった。布団から出して寝ていたわけでもないのに、そこだけ氷を当てたみたいにひんやりしている。
寝ぼけた頭で、昨夜の井戸の手を思い出した。
夢だったのかもしれない。
——そう思いたかった。
けれど、皮膚の奥に残る冷たさが、その希望を否定していた。
昼過ぎ、買い物ついでに村を歩いていると、小さな神社が目に入った。
苔むした石段と、色褪せた鳥居。
社殿の横で掃き掃除をしていたのは、前に会ったことのある古老だった。
「都会の兄ちゃん、珍しいな」
そう笑いながらも、古老は僕の手首をちらりと見て、わずかに眉を寄せた。
話の流れで、僕は昨日の夜のことを話しかけた。
「……井戸を覗いたら、何か、白いものが見えたんです」
古老はしばらく黙っていたが、やがて箒を置いて口を開いた。
「昔な、この村には水女神の祠があった。雨乞いのときゃ、必ず供え物をしてた。
でもある年、ひどい干ばつがあって……村は生贄を差し出したんだ」
生贄。
その言葉が夏の空気を一瞬で冷やす。
古老の話では、選ばれたのは村一番の美しい娘だった。
井戸に沈められ、その日から不思議なことに雨が降り始めた。
それ以来、井戸は「女神の口」と呼ばれ、特別視されてきたらしい。
「けどな……あの井戸は、もう祠じゃねぇ。呼んじゃいけねぇもんまで、呼び寄せる」
古老はそう言って、僕の目をまっすぐ見た。
その眼差しは、忠告というより確認しているようだった。
——お前、もう覗いただろう、と。
帰り道、井戸のことばかり考えていた。
生贄の娘。
水女神。
そして、僕を招くように揺れたあの手。
怖いはずだ。
でも、不思議とその恐怖は、昨日よりもずっと遠く感じられた。
代わりに胸の奥で、あの冷たさをもう一度確かめたい衝動が膨らんでいた。
夜、机に向かっても文字は浮かばない。
窓の外、闇の中で井戸が待っている気がしてならない。
呼ばれているのか、それとも……僕が呼んでいるのか。