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やっと、やっとカーネの緊張の糸を切ることが出来た。再会して三日目で此処まで来たのなら、かなり上出来だろう。
「う、くっ……」
声を殺し、静かにカーネが泣く。真珠の様な涙で頬を濡らしているカーネにハンカチを手渡すと、彼女はそれを受け取って目頭を押さえ、その後もしばらく泣き続けていた。
“僕”に、心を開いてくれている。
その事実がとても嬉しい。こういったタイミングでは下手に声を掛けられたり、励ましたり、同情したりといった言葉は欲しくない事を重々承知しているので、僕はただ寄り添ってこちらに体を預けさせ、頭を優しく撫でてやった。
——時間が緩やかに流れていく。まるで遥か過去に戻った様な気分だ。もっとも、ほぼ全ての者達から敬愛されていた“カルム”がこんなふうに泣く事など滅多になかったが。
時計がカチリと鈍い音を立て、針が十一時を告げた。その事に気が付いたカーネは軽くこちらにもたれ掛かっていた体を即座に起こすと、「……休憩時間はもう終わりですよね。お茶とお菓子、ありがとうございました」と早口で告げて、まるで逃げるみたいに彼女は事務室を後にした。余程慌てていたのか、手には私のハンカチを持ったまま、部屋には藤の花の茶葉を残して。
『“藤の花”の花言葉って確カ、「恋に酔う」とか「優しさ」だったかしラ』
出窓に置いてあったクッションを専領し、ずっと寝たフリをしていたララが片目だけを開けてぽつりと呟く。
「『決して離れない』という意味もあるよ」
『あラ。トト様達にピッタリの花だったのネ』と言い、ララが嬉しそうにふふっと笑った。
カーネが残していった茶葉の缶を手に取ると、それを彼女の代わりとし、そっと口付けた。早く、早く欲しいと焦る気持ちがほんの少しだけ和らぐ気がする。
『お庭に植えたラ?きっと喜ぶわヨ』
「あぁ、そうだな。そうしようか。藤棚を造る所からやらねばならないから、流石に庭師を呼ぶか」
『そうネ。もうカカ様が居るかラ、目立つ場所だと神力で一瞬にとはいかないものネ。神力でそこまで出来るのハ、ヒト族の“聖女”とルーナ族の“大神官”の様に“祝福”された者だけだものノ』
その事をカーネが知っているかは不明だが、今後も一応は避けておくつもりだ。両国は表面上国交を絶ったままなのに、ルーナ族の“大神官”がヒト族の街に二十年間も潜伏しているなんて運悪く知り渡れば大問題になりかねないからな。
窓際に立ち、庭の様子を確認する。
「……藤の花の開花時期はもうとっくにすぎているから、今から植えても見頃は来年なのが残念だな」
『でモ、先の楽しみがあると思えば幸せじゃなイ?』
「確かにそうだな。……その頃までには、多少進展していると良いんだが」
手応えはあるが、焦らずにゆっくり攻めていこうと決めた以上あまり先走った真似はしたくない。堪えきれずに何かしても、今世は記憶のリセットが出来るが……だからって好き放題するのも気が引ける。今は冷静な状態だからそう思うだけ、かもしれないが。
『大丈夫ヨ。さっきのカカ様、とても幸せそうだったもノ』
「ずっと泣いていたのにか?」
『えェ、そうヨ。間違いないワ』と自信満々にララが言う。
「ララが言うなら、期待しておこうかな」
ふふっとまた短く笑うと、ララは出窓に置いてあったクッションから飛び降り、『——じゃア、そろそろカカ様の所へ戻るとするワ』と口にしながら扉の方へ向かう。そんな彼女に対して「もう少し仕事をしたらお昼ご飯の用意をするから、十二時半くらいには三階にカーネを連れて来てくれ」と伝えた。
『わかったワ。時間が近くなったラ、掃除をいつでも中断しやすいように「そろそろお昼ネ」って言っておくわネ』
「ありがとう、ララ」
じゃあねと言うみたいに尻尾を振り、ララが扉をすり抜けて行く。その様子を見送った私は、ティーセット一式を全て元の位置に戻し、事務仕事を再開した。
お昼ご飯を終え、二度目の休憩時間の時はカーネが藤の花のハーブティーを淹れてくれた。午前中に教えた通りの手順で、ポットやカップを温める魔法も見様見真似だったのにもうマスターしている。呪文などを必要とせず、持ち前の感覚だけで魔法を使えるおかげだろう。
黒魔術を用いて魂を体ごとバラバラに砕かれた過去の一件のせいで、昔の彼女程ではなくとも、“カルム”だった頃の豊かな才覚は今も尚健在の様だ。カーネは自分を『不出来だ』と思っているが、今まではただ学ぶ機会が無かっただけなので、きっとこの先は水を得た魚の如く成長していくだろう。
——“僕”の、隣で。
爪磨きを貸したり、お茶を飲みながら二人で調理の基礎について書かれた本も読んだ。一ページ、二ページと読み込んでいくたびにカーネが全てを記憶していくのを隣に居るだけでも感じ取れる。彼女が十五歳の時に“本”の“スティグマ”持ちが死んだ事で、取り戻した才能だ。カリスマ性が高くなる“王冠”も随分前にカーネは取り戻してはいるのだが、そちらは元の体との相性が悪かったから発動されてはいなかったけど、今後はどうなる事やら……。
夜になり、ご飯の用意を一緒にやりながら料理を教えるはずだったのだが、『最速、私はもう不要では?』と思う程に手際がいい。だがその事実がとても嬉しい。所作は尊く、覚えの早さは誇らしくさえ思う。
「シスさん、こんな感じですか?」
野菜を切るたびにそう確認を求めてくるが、図解の絵の通り綺麗に野菜が切ってある。本に紹介されていた基本的な切り方は頭に入っていて、後はもう経験さえ積めばマスター出来る段階なのだろう。
「はい。問題無いですよ。綺麗に切れています。——じゃあ次は、全て鍋に入れてしばらく煮込みましょうか」
「わかりました」とカーネが頷き、根野菜から鍋に入れて煮込み始める。火の通りにくい野菜を順番に入れていくといったアドバイスも不要の様だ。
「じゃあ野菜を煮込んでいる間にサラダの用意をしましょうか」
「はい」
「パンは朝に焼いた物がまだ余っているので、それを食べないとですね」
ボウルを用意し、二人でレタスを手で千切っていく。『共同作業』って感じでとても楽しい。
(まるで“夫婦”みたいだな。もう夫婦って事でいいのでは?)
いずれは夫婦となる命運なのだから、もうそういう事に——
いやいや待て、焦るな。
焦りは禁物だと、事前に読み漁ったどの本にも書いていたじゃないか。
「……どうかされましたか?」
口元が笑っていたせいか、不思議に思われてしまったみたいだ。
「あぁ、すみません。『夫婦みたいだな』と、ちょっと思ってしまって」
「——夫婦?……あぁ……」
……カーネが黙ってしまった。
つい本心をこぼしてしまったのが仇になった様だ。だが、『冗談ですよ』なんて嘘は言いたくはない。一度口にした本心を撤回すると、多くの場合が悪い方に物事が転がっていくからだ。
だが沈黙を嫌がって謝るのも変かと思い、私も黙ったまま野菜を切り始めると、「……あ、あの」とカーネの方が先に口を開いた。
「?」
作業を止めて、カーネの方へ顔だけを向けて首を軽く傾げる。
「シスさんは、結婚のご予定があるんですか?」
無表情で訊かれたが、うっすらと耳が赤い。努めて表情を殺しているのだろう。その理由が私の望むものであればいいのに。
「いいえ、ありませんよ。ずっと忙しかったですからね、恋人がいた事もありません」
あくまでも、『今の人生では』の話だが。
「そうなんですか?意外ですね」
そう言って、カーネがほっと小さく息を吐いた様な気がする。
「意外、ですか?」
「えぇ。だってこんなに優しくて、格好良いヒトがずっと一人だなんて」
「……ありがとうございます」
前髪と眼鏡で顔を隠しているが、それでもこの容姿も気に入ってくれていたか、良かった。
「でも、獣人族はやっぱり獣人族同士で結婚されるんですよね?となると、いずれ本国に帰るんですか?」
「“ルーナ族”です」
「……“ルーナ族”?」と言い、カーネが作業する手を止めてキョトンとした顔になった。
「“獣人族”と言う呼び方は、“ヒト族”が我々を呼ぶ時に使う蔑称なんですよ」
そう告げた途端、カーネの顔色が一気に青冷めていく。真面目な彼女が『その呼び方は蔑称だ』と聞かされて平気な訳が無いか。
「す、す、すみません……知らなかったとはいえ、何度も何度も」
自分の行いを悔恨し、カーネが必死に頭を下げる。
「いえいえ、もっと早くお教えするべきだったのに伝え損ねていたのは僕の方なのでお気になさらず。それに、外でもし『ルーナ族』と口にしてしまっても困りますからね、今までの様に『獣人族』で良いかと。まぁ、よっぽどでないと“獣人族”の事を指しているとは誰も気付かないでしょうけど、ただ本来はこうだと、頭の片隅にでも置いていてもらえると嬉しいです」
「気を付けておきます」とカーネが深く頷く。
この地域に住む者達は、近くにセレネ公爵邸がある関係で比較的ルーナ族の者が多いから心配はいらない。だがタウンハウスに住む貴族達などはヒト族なので、注意しておくに越した事は無いだろう。
「ちなみに僕は本国への帰還予定は今の所ありませんし、好きになれば、ルーナ族の者がヒト族と結婚する事も許されていますよ」
多大なる期待を込めてニコッと微笑む。するとカーネは、そっと私から視線を逸らしながら「……そう、ですか」と呟き、赤い頬を誤魔化すみたいに鼻先を手で擦った。
「続き、やりましょうか」
「そうしましょうか」
揃って調理を再開する。そっと視線だけを隣にやるとカーネの耳が赤いままだった。……期待していても良いという事なんだろうか?まぁ、もしこの反応が『結婚』というワードにただ照れているだけなのだとしても、カーネに与えられた選択肢は一つだけなんだけどな。