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薄ぼんやりした霧の中で聞き慣れたメロディーがわずかに鳴った。そのメロディが、あたしを呼んでいることに気がつくまでにもう少し時間がかかった。
「起きた?」
スマホの目覚ましを消すと同時に後ろの方から声がした。しかし、素肌を包むシーツがあたしの起きようとする意思をドロドロに溶かしていく。抗えない力に対して強く抵抗するのはとても無意味に感じて仕方がない。
「葵、そろそろ起きないと」
肩を少し強引に揺する大きな手。直で感じる肌の温度。優しく鼓膜を揺らす、お気に入りの低い声。彼の色々なものが、少しずつドロドロからあたしを引っ張りあげていく。
「…のど、かわいた」
少しヒリヒリと痛むのどから少しざらついた声が出た。
「…声、少し枯れてる」
すっかりスーツに着替えた彼が少し笑いながら水の入ったコップを持ってきてくれた。
「うれしい?」
水を口に含む。視線だけをそちらに向けると少し赤くなった頬が見えた。
ざらついた喉を、飲み込んだものが撫でていく。少し、痛かった。
「ぼ、僕、もう行くから」
「んー」
急にバタバタと準備を整えた彼はそのまま玄関へと消えた。
あたしは1つ伸びをして、ほんのり痛む腰をさすった。
「…葵」
「…っ!」
不意に聞こえた声に振り返ると、いつの間にか戻ってきていた彼が目の前にいた。驚いたあたしに構わず、彼はそっと唇を重ねた。
「…好きだよ。行ってきます」
小さく微笑みながら、丁寧に紡がれた言葉たち。フチなしの四角い眼鏡の向こうの、瞳の黒。まっすぐにこちらを向くそれらが、あたしにはどうしようもなく眩しすぎて、思わず目を逸らした。
「うん」
代わりに目に映ったのは白いシャツの真ん中で揺れる、深い赤。彼の誕生日にあげたネクタイ。あまり高いものは買えなかったけれど、頬を赤くして嬉しそうに笑ってくれていた。
「…行ってらっしゃい」
あたしも彼の真似をして笑ってみせた。それから小さく手を振ってその背中を送り出し、今度はちゃんと、ドアが閉まる音を確認した。
そのまま服も着ないで、あたしは洗面所に走った。
「っ…うっ…」
洗面台に顔を突っ伏して、せり上がってくる気持ち悪いものを吐き出そうとした。
しかし、こんなに吐き気が込み上げているのに、汚い声と、唾液ぐらいしか吐き出せない。
それでも、ひたすらにそれを続けた。
だんだんと激しくなる呼吸で耳がいっぱいだった。
その中で、ふいに誰かの苦しそうな声が重なる。
震える小さな背中。嘔吐く声となにかが吐き出された音。白い箱の中で響くか細い泣き声。いつか見てしまったその姿は、開けてはいけないパンドラの箱だった。
「はぁはぁ…はぁ…」
昔から、人付き合いが苦手だった。他人はどこまでいっても他人にしか感じられなくて、周りの子たちがどうやってその壁を砕くのか不思議で仕方なかった。
でも周りは、あたしを1人にしてくれなかった。1人は変で、おかしくて、かわいそう。そう言うくせに、あたしの手を引いてそのあるべき姿になれるように手伝ってくれる人は誰もいなかった。
あたしはとても息苦しかった。
前へ進む正常な人たちの歩みを邪魔すると分かっていても、後ろにしか進めない。それを理解してもらうのは難しいらしかった。
「はぁはぁ…うっ…ううっ…」
あの子を初めて見たとき、「操り人形」を思い浮かべた。操り糸のようなチューブにつながれて、自由のきかない体をベッドにもたれかけさせて。自分よりもずっとずっと生きづらいその姿にあたしはひどく安心した。
あたしは自分のためにあの子の元へ通い続けた。
『葵』
親友なんて、簡単に言うんじゃなかった。
けれど、背中にまわされた細い腕の感触も、頬を撫でられた温かさも、素直に受け取るには、あのときのあたしの世界は狭すぎた。
『ねぇ、葵』
ぎゅっとこぶしをにぎって、乱暴に涙を拭った。もう無いものの面影を探してもがく自分の手が今にもバラバラと崩れてしまいそうで怖い。そんな気持ちを隠すように、あたしは体を丸めて小さくうずくまった。
『ずっとずっと…離れてても……』
あぁ、息が苦しい。心臓が、うるさい。
「…も、だよ」
1束の長い髪が肌をすべって落ちる。
スカーフなんて、あげなきゃよかった。