翌朝。
おらふくんは、いつもより少しだけ早く家を出た。
理由はない。
ただ、教室に入る瞬間が、いちばん息苦しいから。
靴箱で上履きに履き替え、
廊下を歩く。
教室の前に立ったところで、
一瞬、足が止まった。
――大丈夫。
昨日は、途中でやんだ。
そう思いながら、ドアを開ける。
「……」
いつも通りの教室。
机の配置も、空気も、何も変わっていない。
……いや。
変わっていた。
窓側の席。
一つ隣。
おんりーが、もう座っていた。
朝の教室で見るおんりーは、少しだけ違って見える。
無表情で、机に肘をついて、外を見ている。
目が合う。
おんりーは、ほんの一瞬だけ眉を動かして、
それだけで「おはよう」の代わりにした。
声は出さない。
でも、そこにいる。
おらふくんは、何も言わずに自分の席に座った。
――近い。
それだけで、胸の奥が少しざわつく。
一時間目。
ノートを開く。
ペンを持つ。
後ろの席から、ひそひそ声。
「今日さ……」
「……やめとく?」
名前は出ない。
でも、分かる。
おらふくんの指が、きゅっとペンを握る。
そのとき。
椅子が、少し動く音。
おんりーが、ほんの少しだけ体をずらした。
背中が、自然にこちら側を向く。
それだけ。
でも、後ろの声は、それ以上続かなかった。
授業は、普通に進む。
黒板の字が、今日は少しだけ読めた。
休み時間。
いつもなら、誰かが机にぶつかってくる時間。
……何も起きない。
代わりに、おんりーが立ち上がる。
「……トイレ」
それだけ言って、教室を出る。
その瞬間。
「調子乗ってね?」
小さな声。
机の横。
視界の端に、影。
おらふくんは、何も言わない。
言えない。
でも――
「何?」
廊下から戻ってきたおんりーの声が、重なった。
振り返ると、
さっきまでそこにいた影は、もう席に戻っている。
おんりーは、何も追及しない。
ただ、視線だけを一瞬向けて、
それから、何もなかったように座る。
「……」
おらふくんの心臓が、少し遅れて強く打った。
昼。
屋上は閉鎖中。
今日は、裏に行く。
おらふくんがパンを出すと、
おんりーも同じように座った。
「……今日は」
おんりーが言う。
「教室、静かだったね」
おらふくんは、少し考えてから、うなずく。
「……うん」
「……でも」
と。
「完全じゃない」
断定じゃない。
確認でもない。
ただの、気づき。
おらふくんは、パンの袋を握りしめる。
「……やんだだけ」
ぽつりと、言葉が落ちた。
自分でも驚くくらい、小さい声。
でも、確かに言った。
おんりーは、何も言わなかった。
ただ、地面を見て、ゆっくり息を吸う。
「……そっか」
それだけ。
でも、その後。
「……俺さ」
視線を上げずに。
「しばらく、離れないと思う」
理由は、やっぱり言わない。
でも、
それは宣言みたいに、静かで、重かった。
おらふくんは、何も答えられなかった。
でも、胸の奥が、少しだけ軽くなる。
午後。
準備室。
今日は、最初から二人でいる。
「……ねえ」
おんりーが、急に言う。
「無理に話さなくていいからさ」
おらふくんは、首をかしげる。
「……うん」
「でも」
おんりーは、少しだけこちらを見る。
「怖いときは、ここに来て」
それだけ言って、また前を向いた。
おらふくんの指先が、震える。
怖かった。
今日も。
昨日も。
ずっと。
でも、その言葉を、まだ声にはできない。
準備室の時計が、カチカチと鳴る。
いじめは、終わっていない。
ただ、形を変えて、息を潜めている。
そして、
おんりーは、それをちゃんと分かっている。
だから、
今日は、離れなかった。






