テラーノベル
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第十六章 ふたり分の買い物
味噌汁の匂いが、心を穏やかに保っている。
炊き立てのご飯に、翔太が用意したインスタントの味噌汁と、海苔を添えて――
味噌汁の湯気の向こうに、翔太が笑っている気がした。
まばたきを一つ、余計にした。
湯気が晴れる。
そこには、誰もいない。
それでも――
「いただきます」
自然と、向かい側に目をやる。
「猫舌だから、フゥフゥして?」
そんな声が聞こえた気がして、思わずふっと笑った。
箸が止まる。
癖みたいに、もう一膳を手に取りかけて、
苦笑いして戻す。
「……癖って、怖ぇな」
ふと視線を逸らすと、ソファーに積まれた洋服が目に入る――
「おい!ちゃんと洗い物出せよな」
そう言って頰を膨らませた翔太が、脱衣所から顔を出しそうだ。
「俺も大概……重症だ」
そう言って、味噌汁を一口すする。
――ピンポーン。
朝からけたたましく鳴るインターホン。扉の小窓から飛び込んできた人物に心臓が止まるかと思った――
一瞬、現実かどうか分からなかった。
「また来ちゃった」
いや……可笑しいだろう。
「ねぇ仕事大丈夫?まさか、辞めたりしないよね?」
翔太は、海外での仕事のついでにここに寄ったと言って、「夜ご飯俺が作ろうか?」と笑って見せた。
抱きしめたい衝動を堪えて、頬に触れる。
ちゃんと温かい。親指で、唇の端をなぞると、
「くすぐったいって」
と笑う。
その笑顔が近すぎて、
思わず額を合わせた。
「……ほんとに来るとか、反則」
翔太が、くしゃっと笑う。
「会いたかった?」
返事の代わりに、
そのまま軽く額に唇を押し当てた。
翔太がタンブラーに淹れてくれたコーヒーを飲んだ。
ホテルの部屋の出入り口の僅かな隙間に、二人立つと
「晩御飯作って待ってるね、行ってらっしゃい」
と俺の胸に手を置いた翔太は、踵を上げて唇にキスをした。
「最高の朝だよ翔太……ありがとう忙しいのに会いに来てくれて……じゃあ行ってきます」
その言葉の余韻を残したまま、俺は仕事に向かった。
今日一日くらい、何も疑わなくていい。
そう思えるほど、朝の温度は優しかった。
スマホで翔太のスケジュールを確認した。
久しぶりに開いたメンバーの予定表に、近日中、ミラノの文字があった。
……そうだったな、と自分に言い聞かせる。
ついでに寄る距離じゃない、なんて考えは、
コーヒーの苦味と一緒に飲み込んだ。
翔太 side
怪しまれたかな……大丈夫だよね。奥様が魔女になりましただなんて、誰が信じるんだ。
考えてみれば、カナダってドル?
お財布を除くけど日本円しか入っていない。どうやって外貨に変えるんだ?
これでは、晩御飯の買い出しに行けない。
フロントで聞いてみる?
日常会話くらいなら多少喋れる。恐る恐るフロントへ近づくと、いつかの老夫婦が――
「あなた日本人?」
らしいニュアンスで、話しかけてきた。
「YES」
と言った声がやたら大きくって、顔が熱くなったのが分かった。
「You’re so cute」
いかにも海外に慣れていない、一人旅をする少年とでも思ったのか、〝Go… shopping〟と言う俺に、甲斐甲斐しくも近くのスーパーまで付き合ってくれた。
「sorry… I only have Japanese yen」
一万円札を出すと、老夫婦は顔を見合わせて、くすっと笑った。
「Oh… don’t worry」
そう言って、為替所の方向を指差しながら、ゆっくりと説明してくれる。
半分も理解できていないのに、何度も頷いてしまった。
カゴの中には、味噌汁の具と、簡単に作れる食材ばかりを入れた。豆腐は二丁。
卵も六個入り。蓮は半熟が好きだから、
失敗してもいいように。味噌も、少しだけ高いやつ。
「これ、好きなんだよね」
と笑っていた顔を思い出す。
老夫婦に見守られながら、自然と量が増えていく。
一人なら、こんなにいらないのに。
自分の分、というより――蓮が帰ってきた時の分。
自然と量は、二人分になっていた。
料理の腕を振る舞うには、まだまだ修行が足りないなだなんて思ったりしてクスクス笑う俺を、不思議そうに見つめる老夫婦に、
「cooking beginner!!」
と大きな声で叫んだ俺に、
「You’re such a funny boy」
と頭を撫でられて、急に恥ずかしくなった。
少し照れて、
「For my… lover」
と、小さく付け足す。
老夫婦が、顔を見合わせて微笑む。
その瞬間、胸の奥があたたかくなる。
後でこっそり翻訳機で調べた〝面白い子ね〟って意味らしい。
少し照れながら、思う。
いつか、年を重ねても。
こんなふうに、隣にいる人の好みを覚えていて、
当たり前みたいに二人分を選べる人でいたい。
買い物を終え、再びホテルに戻ると、〝good-bye cutie boy〟と言って手をヒラヒラさせた二人は仲良く手を繋いで去って行った。
二人の後ろ姿を見て、年老いても、あんな素敵なカップルになりたいと、心から思った。
その日の空は青すぎて、少し目が痛かった。
こんな色を、ずっと守れたらいいのに。
瞳の奥が、少しだけ、ちくりとした。
まばたきを一つ、余計にした。
不安や恐怖がないと言えば嘘になる。
それでも、笑う。
だって、今日は、
ふたり分の買い物ができた朝だから。
――それだけで、幸せだった。
コメント
4件
お買い物幸せそうだし、老夫婦優しい。キューティボーイ💙
