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「か、母さん、お粥……食べよう」
佐紀子のやり方に、月子は我慢ならなかったが、久しぶりに見た朗らかな母の姿に、このままでも良いのではないか、真実を知らない方が、母を傷つけることもないのではないかと、心中は、揺らぎに揺らぐ。
すぐに、本当の事が母に分かってしまうのも、目に見えていたが、冷めかけとはいえ、まだ、柔らかな湯気を上げている粥を見て、月子は、嘘を突き通す覚悟を決めた。
恐らく、母との食事はこれが最後になるだろう。せめて、何の心配もさせず和やかに、母を送り出したい。
そう思い、月子も、名一杯の笑顔を母へ向けた。
「……急だから、月子に何も渡してあげれないわ。お嫁に行くというのに……」
母は、奥に仕舞いこんである葛篭《つづら》に目をやった。
「月子、出してもらえる?」
うん、と、答えると月子は、母の元へ行き、少し埃をかぶった葛籠を取り出した。
「……母さんね、譲れる物がないから……。少し地味だけど、この着物を持ってお行き……」
義父、満が母へ送った着物だとか。西条の家へ入る前に、一張羅を、何枚か用意してくれたのだとか。
「後添えだから、それも、良家の人間じゃないしね。旦那様が、母さんが、恥をかかないように用意してくれたのよ」
しかし、裏方仕事に追われる事になる母は、それらに袖を通すことはなかった。
「母さん!この大島。風に当てるね!」
「月子?」
突然、弾けた月子を、母は、不思議そうに見た。
「だって、病院へ、寝巻き姿のまま行く訳にはいかないでしょ?まだ、時間があるはずだから……この大島を着ていくといいよ!だから、風に通して少しでも湿気を取るね」
泥染めの、高級そうな大島紬の着物は、少し、カビ臭かった。風に通せば、いくらかましになるだろうと、月子は、葛籠から取り出すと、急いで蔵の外へ出て、脇に作られた、月子親子の洗い物干場へ駆け出した。
棹を下ろし、着物の袖を通して吊り下げる。
少しではあるが、日に照らされ、着物は、風になびいている。
これで、いくらかは、匂いも湿っぽさも消えるだろう。
月子は、母の元へ戻ると、粥を食べよう、椀によそうと行って食事の支度を始めた。
母は、そうねと、一緒に食べるのは最後だと、少し寂しげにそれでも、名一杯笑って見せる。
別れ、とはいえ、ただの入院。そして、月子には、縁談話が持ち上がっている。悲しむ話ではないと、言いたいようだ。
「ああ、そうだ!」
母は、葛籠の中身を確かめながら、月子を呼んだ。
「この着物……月子には、地味だけど、お見合いの席で、着るといいよ……」
母にも分かっているようだ。佐紀子が、わざわざ月子のために、衣装を用意しないことを。
そして、裏方仕事しかしていない月子が、表に出られる着物など持ち合わせていないことも。
母が、広げて見せたのは、若草色に、小さな点が抜かれている、大小霰《だいしょうあられ》と呼ばれる柄の江戸小紋だった。
「これなら、格もあるから、お見合いでも……」
場違いには、かかろうじてならない。けれど、見合いの席には、少し外れたものだと、母にも分かっているようで言葉を濁す。
「ありがとう。母さん。見合いといっても……格式張ったものじゃなさそうだし、普通のお家の方のようだし……」
月子も、とっさに、誤魔化す。
まさか、男爵家へ嫁がされようとしているとは。それも、かなり訳ありの相手のようだとは、さすがに言えなかった。