「橘様、何もそのような、伝説じみた話など、出さなくても……」
紗奈《さな》は、守恵子《もりえこ》を、庇うが、橘は、追い討ちをかけるように、再び、言った。
「どうしましたか?膿《うみ》など、吸い出せませんか?」
──千人の病人を風呂に入れ、垢をすると、願掛けした光明皇后は、周囲に反対されながらも、身分に関係なく、人びとの体を洗った。
そして、最後の千人目として、現れのは、体中膿だらけの者だった。
それでも、皇后は、体を洗ってやるが、その者は、この膿を口で吸い出してくれと、言いだした。この病を治したい為、皇后にすがりに来たのだと言われては、躊躇していた皇后も、動かぬ訳にはいかまいと、言われるまま膿を口で吸い出した。
すると、辺り一面、光輝き、病人は、本来の正体を現し、阿閦如来となった──。
皇后は、病人の姿で現れた如来に、その奉仕の心を計られたのだ。しかし、皇后の思いは、本物だった……。
守恵子は、顔を上げ、袖で、涙を拭うと、橘を見る。
「確かに、私は、皇后のような、徳はありません。私には、無理な話だと思います。でも、何か、役に立ちたいのです。苦しんでいる者が隣にいるというのに、御簾の中で、座っているのは、我慢ならないのです」
守恵子は、誰しも知っている皇后の伝説を引き合いにだされ、世話をするということの厳しさに、目覚めたようだった。
「橘様……守恵子様のおっしゃることも、分かってください」
紗奈は、上野の顔になり、これも、世の中を知る良い機会だと、いずれは、北の方なり、人の上に立たなければならない立場、何かの役に立つはずだと、言い張った。
「ええ、そうね。守恵子様?だからこそ、自分の出来ることを、しっかりと、お知りに、なられてください」
なので……、まずは……。
と、橘は、濡れた衣の紗奈を見た。
「紗奈の着替えを手伝って、そして、運ばれて来た者達に、新しい衣を配ってください」
「橘!!わ、わかったわ!!」
守恵子の、表情は、パッと輝いた。
「た、橘様!しかし!」
簡単な仕事だが、実際のところ、それも、姫様育ちの守恵子には、重荷どころか、到底無理な話だった。
無茶だと言いたげに、言い寄る紗奈へ、橘は、
「そうね、衣は、かなりの数が必要になるでしょう。ひとまず、紗奈は、先に着替えなさい。それからの話ね」
「じゃあ、上野の着替えを手伝うわ!」
と、守恵子は、自分の仕事が出来たと喜んでいる。
「守恵子様、この上野、病人ではありません。一人で着替えられますよ。その、お力を他の事につかえるように、取っておいてください」
途中で力尽きては、皆の足を引っ張ることになる、ひとまず、房《へや》へ戻り、こちらが、動き始めるまで、待機するようにと、紗奈は、守恵子へ、奥へ戻るように仕向けた。
「あっ、そうだわね、では、準備できるまで、守恵子は、待機しております。橘、用意ができたら、呼んでちょうだい!」
「ええ、もちろん、こちらは、猫の手も借りたいぐらい。お呼びいたしますよ」
微笑みながら言う橘の横で、
「猫さんを、呼ぶなら、タマ、通詞《つうやく》します!」
タマが、主人の為にと、張り切っている。
「いや、ちょっと、違うんだけど、まあ、いいか」
紗奈の言葉に、皆は、笑い合った。
「橘、すまなかった、ひとまず、守恵子を奥へ連れて帰る。続きはその後で……かまわぬか?」
守満《もりみつ》は言うと、守恵子を小屋から連れ出した。
二人を見送りながら、残った一同は、大きく息をついた。
「もう!兄様!!あんな、言い方ないでしょ!!!」
すぐに、紗奈が、常春《つねはる》へ食ってかかる。
「うん、失敗した……」
「でも、紗奈?そう、責めてはいけないわ。常春樣は、あなたの事を思って、今まで、どれだけ危険な目にあっているかを見ているから。だから、つい、なのでしょ?」
と、橘が、兄妹《きょうだい》の間だに割って入る。
「……あ……」
紗奈は、言葉に詰まった。兄は、そこまで、自分を守ってくれていたのかと。
分かってはいた。常日頃から、口煩く、あれこれ注意するのは、紗奈を思っての事だと。しかし、あの、守恵子への態度を見て、そして、その理由が、はっきりしては、これ以上、紗奈も兄を責める訳にもいかない。いや、責めてしまったことすら、申し訳ないと思っている。
「ふふ、常春様の妹思い、さて、これから、どう出るのでしょうねぇ」
いきなりの、意味深な橘の言葉に、常春と、紗奈は、顔を見合わせた。
「とにかく!紗奈、着替えなさい!といっても、私のお古しかないんだけど……」
「かまいません!というより、橘樣の纏《まと》う物を……汚してしまって……」
構わないわよ、と、言いながら、橘は、板土間の隅にある、葛籠《つづら》から、衣一式を取り出した。
「隣の、染め殿なら、今は、誰もいないから、あちらで着替えてらっしゃい」
橘から、着替えを手渡され、紗奈の顔は、ほころんだ。
「あー!もう、女房職なんて、やめちゃおーかなー!橘樣!おかみさんの格好って、凄く動き安くて、楽ですねー!もう、元には戻れそうにないですよ!」
ははは、と、笑う紗奈へ、
「では、我の、女房になってくれ!」
と、戸口から声がした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!