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真夏の日差しが、物理室の埃っぽい窓ガラスを通して、床に不規則な光のパターンを描いていた。
高校二年の夏休み明け。**相原 悠真(あいはら ゆうま)**は、この学園で最も目立たない存在を自負していた。Tシャツ、ジーパン、そして常に手には数式がびっしり書かれたノート。彼にとって世界は、証明すべき定理と、解くべき問題の集合でしかなかった。恋愛? それは、現実世界には存在しない虚数のようなものだ。
「おい、相原。また夏休み中ずっと『数学ガール』読んでたんだろ」
隣の席の幼馴染、**佐竹 涼(さたけ りょう)**が、口に咥えた棒付きキャンディをカチカチ鳴らしながら、呆れたように言った。涼は野球部のエースで、クラスのムードメーカー。悠真とは正反対の「陽キャ」の権化だ。
「違う。リーマン幾何学の入門書を……って、関係ないだろ。僕の読書リストを君に報告する義務はない」
悠真は顔を赤くして反論する。そんな彼の視界の隅で、教室のドアが開いた。
ガラン。
一瞬、時が止まったように感じた。
そこに立っていたのは、光を吸い込むような長い黒髪と、透き通るような白い肌を持つ、転校生だった。
彼女の名前は七瀬 咲良(ななせ さくら)。
自己紹介は簡潔だった。
「七瀬 咲良です。よろしくお願いします」
その涼やかな声は、蝉の鳴き声がうるさい教室で、なぜかクリアに響いた。
そして、運命のいたずらか、担任の教師が言った。
「席は、相原の隣だ」
悠真の心臓は、まるで\(1/t\)に比例して発散する関数のグラフのように、急激に鼓動数を上げた。
咲良は、悠真の隣に静かに座った。漂ってくるのは、図書館の古書のような、微かに甘い、知的な香り。
休み時間。涼が早速、咲良に話しかけに行く。
「七瀬さん、よろしくな! 俺は佐竹涼。こいつは相原悠真。見た目はただの『数学オタク』だが、中身はただの『数学オタク』だ!」
「うるさい、涼!」
悠真が叫ぶと、咲良が小さく笑った。その笑顔は、彼にとっての「微分積分学の基本定理」のように、世界を美しく、完璧に完成させた。
「相原くん、よろしくね。あの、相原くんのノート、見てもいいかな?」
「え? ああ、どうぞ……」
彼女が指差したのは、悠真が授業中に落書きのように書いていた、ある数式だった。
\[\\frac{dy}{dt} = k \\cdot y \\left( 1 - \\frac{y}{L} \\right)\]
「これは……ロジスティック方程式?」咲良は目を輝かせた。「環境収容力\(L\)の下での、個体群の増加モデルだよね。これを授業中に書くなんて、面白いね」
悠真は絶句した。**「ロジスティック方程式」**という単語を、こんなにも可愛らしい口から聞く日が来るとは、夢にも思わなかった。
「あ、いや、これはただの、その……ええと、**『僕の人生の成長率』**をモデル化しようと思って……」
我ながら、意味不明な言い訳だ。
咲良はまた、くすっと笑った。
「じゃあ、この\(k\)(増加率)は、何に依存してるの? テストの点数? それとも、恋の予感、かな?」
悠真の顔は、一瞬で茹でダコになった。
「そ、それは……まだ**未定義(Undefined)**の変数です!」
悠真の青春ラブコメの「解」を求める旅は、すぐに予想外の方向に加速した。
翌週、クラスには新たなポスターが貼られた。「全日本高校生 数理コンテスト 予選」。
「相原くん、これ、出てみない?」
咲良が放課後、悠真の机をコンコンと叩いた。
「え? 僕が? いや、僕なんて、公式を暗記してるだけの凡人だから……」
「謙遜はいらないよ。ロジスティック方程式を落書きする凡人はいない。それにね」
咲良は、彼のノートに書かれた数式を指さし、真剣な瞳で言った。
「私、転校前の中学で、数学オリンピックの国内予選を通過したことがあるの。でも、高校レベルの応用問題は少しブランクがある。君の理論的な厳密さと、私の直感的なひらめきがあれば、きっと面白い結果が出せると思うんだ」
彼女の誘いを断る理由など、悠真の論理回路には存在しなかった。むしろ、彼女と二人きりで時間を共有できるという事実は、\(e^{ix} = \\cos x + i \\sin x\) のように、彼の心を完全に調和させた。
「わ、わかった。やろう。チームを組もう、七瀬さん」
「ありがとう、相原くん。じゃあ、まずはこの週末、私の家で合同演習、どうかな?」
「え……七瀬さんの、家で!?」
「ああ、ごめんね。図書館は集中できないから。変な意味じゃないよ」咲良は悪戯っぽく微笑んだ。「ただの、変数分離型の特訓だよ」
土曜日。悠真は生まれて初めて、女の子の部屋という「未知の領域」に足を踏み入れた。咲良の部屋は、壁一面が本棚で埋め尽くされ、真ん中のテーブルには数学の専門書とルーズリーフが山積みになっていた。
「コーヒーでいいかな?」
「は、はい!」
二人でコンテストの過去問を解き始めた。悠真は、咲良の解答スピードと、時折見せる大胆なアプローチに驚愕する。
「相原くん、この非線形連立方程式の解、どう思う?」
彼女が指差したのは、今回のコンテストの最難問だった。
「ええと……これは、カオス理論の初期条件に酷似していますね。わずかな初期値の誤差が、最終的な解に甚大な影響を及ぼす。まるで、僕の……恋の感情みたいだ」
悠真は、思わず口を滑らせてしまった。
シーン。
部屋が一瞬、静寂に包まれた。悠真の顔は、蛍光灯の下でも隠せないほど赤くなった。
「あ、ご、ごめんなさい! 数学的な比喩として言っただけで、その、深い意味は……」
咲良はペンを置き、悠真をまっすぐに見つめた。
「相原くん」
「は、はい……」
「初期条件の設定は、とても大切だよね」彼女は優しく言った。
そして、彼女は悠真のノートに、彼の「ロジスティック方程式」を書き直した。
\[\\frac{dy}{dt} = k \\cdot y \\left( 1 - \\frac{y}{L} \\right) + \\alpha\]
「この\(\\alpha\)、を**『初恋補正項』**としよう。これは、不確定で、予測不能な項。でも、この\(\\alpha\)がゼロだと、この方程式の解はつまらないS字曲線で終わっちゃう」
咲良は、悠真の顔に、おでこが触れるほど顔を近づけた。彼女の吐息が、彼の頬にかかる。
「ねえ、相原くん」
「な、なんですか……」
「このカオス的な方程式の初期条件を、私と一緒に定義しない?」
初期条件。それは、方程式の解を一意に決定する、最も重要なファクター。
「それは……その……つまり……」
「ふふ。難しい顔をしないで。これは、あくまで理論の検証だよ」
咲良は、彼の顔の距離を保ったまま、微笑んだ。その瞳は、宇宙の真理を見つめる数学者のように、深く、そして美しかった。
その瞬間、悠真の「初恋の微分方程式」は、\(t=0\) における初期値を、完璧に受け入れたのだった。
コンテスト予選当日。会場の大学の講堂は、全国から集まった「数理強者」たちの熱気で満ちていた。
悠真は極度の緊張で、手のひらに汗をかいていた。咲良は隣で、驚くほど冷静に問題を解いている。
休憩時間。悠真は飲み物を買いにロビーに出た。その時、視界に入ってきたのは、咲良と涼が、親密そうに話している姿だった。
「よっ、咲良!」涼は、いつものように爽やかな笑顔だ。
「佐竹くん、来てくれたんだ」咲良も、悠真に見せる真剣な表情とは違い、楽しそうに笑っている。
悠真は、自販機の影に隠れて、二人の会話に耳を澄ませた。
「お前ら、まさか二人でこっそり特訓してたとか言わないよな?」涼は笑いながら言った。
「秘密。でも、相原くんと組んで、難問に挑戦するのは楽しいよ」
「ふーん。ま、相原も頑張ってるみたいだし、俺も応援に来た甲斐があるってモンだ」
悠真は、その会話から「二人の関係」を読み解こうと、頭の中で連立方程式を立てていた。
(1) \(\\text{悠真} + \\text{咲良} = \\text{協力}\)
(2) \(\\text{涼} + \\text{咲良} = \\text{親密}\)
(3) \(\\text{悠真} + \\text{涼} = \\text{幼馴染}\)
この方程式は、彼の心を支配する固有値を見つけ出せそうになかった。
予選の最終問題は、**行列式(デターミナント)**の応用だった。
悠真は、涼と咲良の会話で動揺し、思考が混乱していた。手の震えが止まらない。
(ダメだ。集中しないと。僕は、咲良さんとこの問題の解を求めに来たんだ!)
彼は無理やり意識を問題に戻した。
「相原くん、大丈夫?」
咲良が、心配そうな声で囁いた。
「この問題……この行列式は、与えられた三つのベクトルが作る平行六面体の体積を表しているんだよね」
悠真はハッとした。彼女の言葉で、彼の頭の中に光が差し込む。
「はい。そして、この体積がゼロ、つまり行列式がゼロになるのは、三つのベクトルが線形従属、同じ平面上にある時だ」
咲良は、彼のノートに、悠真、咲良、涼を象徴するベクトル\(\\vec{u}, \\vec{s}, \\vec{r}\)を描いた。
「私たちの関係も、このベクトルと同じかもしれない」咲良は言った。「私と君が協力している。そこに涼くんが関わってきた。もし、三人のベクトルが同じ平面上に収まってしまったら、それは単なる『仲良し三人組』という、体積のない、薄っぺらい関係になってしまう」
彼女はペンを走らせ、言った。
「この行列式がゼロでなく、意味のある体積を持つためには、私たち三人が作る空間が、どこかで線形独立である必要がある。つまり、誰か一人が、残りの二人とは違う、特別な方向を向いていなきゃいけない」
咲良は、顔を上げて悠真を見た。
「私は、君と特別な方向に進みたい。これは、佐竹くんがいても、いなくても変わらない私の初期条件だ。だから、相原くん。君は、私と一緒に、誰にも邪魔されない三次元の空間を作ってくれる?」
悠真は、咲良の瞳に映る決意を見た。彼女は、涼という「変数」を恐れるのではなく、それを乗り越えて、悠真との関係を「三次元」へと昇華させようとしていた。
「もちろんだ、七瀬さん!」
悠真の心の迷いは、一瞬で消え去った。彼は震える手でペンを握り、最後の計算を始めた。彼らが導き出した解答は、見事に、その行列式がゼロではないことを証明していた。
コンテストの結果は、数日後に郵送で届いた。
「予選通過。決勝進出決定。」
放課後の教室。悠真と咲良は、二人で結果を喜び合った。
「やったね、相原くん!」咲良が、満面の笑みで悠真の手を握った。
その時、教室のドアから涼が入ってきた。
「お、予選通過か! さすが俺の幼馴染と、俺の応援した咲良!」
涼は、二人に向かって親指を立てた。そして、悠真に向かってウインクした。
「相原。お前、よかったな。**『体積ゼロじゃない空間』**を作れて」
悠真は、驚いて涼を見た。なぜ、涼がその言葉を知っている?
「え? 涼、どうしてその言葉を……」
涼は、笑いながらキャンディを口に放り込んだ。
「俺さ、咲良に頼まれてたんだ。**『もし相原くんが緊張で固まっちゃったら、あの比喩で刺激してあげて』**ってな。咲良から、お前の考えてる数式とか、全部聞いてたんだよ、このバカ」
悠真は、顔が真っ赤になり、頭が真っ白になった。つまり、彼は咲良と涼の手のひらで、完璧に踊らされていたのだ。
「七瀬さん、君は……!」
咲良は、いたずらっ子の顔で笑った。
「だって、相原くんは、『恋の予感』という\(\\alpha\)(初恋補正項)を、なかなか定義してくれなかったから。ちょっと強引な初期条件を設定してみたんだ。これで、私たちの微分方程式の解は、無限大に収束すること間違いなしだね!」
「無限大に収束……って、それは愛の深さが、ってことですか……?」
「さあ、それはどうかな?」咲良は、彼の顔を見上げ、微笑んだ。
彼の青春ラブコメ小説のタイトルは、もはや「初恋の微分方程式」ではない。
それは、**「無限に続く恋の漸近線」**だった。
承知いたしました。二人の関係が「付き合う」という具体的な形に収束する最終章を書き上げます。
数週間後。相原悠真と七瀬咲良は、「全日本高校生 数理コンテスト」の決勝の舞台に立っていた。予選とは比べ物にならない緊張感、そして全国の注目度。
最後の問題は、誰もが頭を抱える「ゲーデルの不完全性定理」を思わせるような、数学的論理の限界を問うものだった。
制限時間、残り10分。
悠真はペンを走らせる手が止まった。彼の頭の中の演算回路は、過負荷でエラーを吐き出していた。
「ダメだ、七瀬さん。この定理の証明に必要な**『公理』**が、どこにも見つからない……」
咲良もまた、一点を見つめて動かない。彼女の表情は、珍しく不安に曇っていた。
「公理がない……ということは、この定理自体が**『証明不能』**である可能性も……」
残り5分。
悠真は、ふと、初めて咲良とロジスティック方程式について話した時のことを思い出した。彼女が言った言葉。
「君の理論的な厳密さ」と「私の直感的なひらめき」
そうだ。この問題の答えは、論理の枠内にはない。
悠真は、自分のルーズリーフの余白に、これまで咲良と過ごした日々を思い出しながら、鉛筆を走らせた。彼女の笑顔、数学用語を使った軽口、そして、彼の顔におでこを近づけた時の、あの**「初期条件」**の定義。
彼が書き出したのは、解答ではなく、彼女との「初恋の微分方程式」の解だった。
t→∞limy(t)=L
(時間が無限に経過したとき、個体数(y)は環境収容力(L)に収束する)
「僕にとってのL(環境収容力)は、七瀬さん、君だ」
悠真は、その瞬間、あることに気づいた。この問題の解答に必要なのは、**「公理」ではない。必要なのは、「定義」**だ。
彼は、最後の力を振り絞り、一つの式を導き出した。
(解答用紙より抜粋)
残り30秒。
「七瀬さん! 答えは**『偽』**だ! そして、証明に必要なのは、論理を超える定義だ!」
悠真は、自分が導き出した解答を、咲良に見せた。彼女は、一瞬の沈黙の後、彼の解答の横に、力強く自分の答えを書き加えた。
「相原くん……天才だ」
コンテストは終了した。結果は、二人が導き出した「論理を超える解答」が審査員の度肝を抜き、見事、優勝を飾った。
講堂の外。夕焼けが、悠真と咲良の顔を赤く染めていた。
「七瀬さん……」
「相原くん」
二人は同時に口を開いた。
「まず、僕から言わせてください」悠真は、優勝トロフィーよりも重い決意を込めて言った。「僕の**『初恋の微分方程式』は、決勝戦で、ついに『解』**を見つけました」
咲良は、彼の言葉を遮らず、静かに聞いた。
「僕にとっての環境収容力(L)は、この世界における幸福度の最大値であり、それは君のことだ。そして、僕の人生の成長率を支配する初恋補正項(α)も、君との時間だ。この方程式が無限に収束するためには、一つだけ、欠かせない初期条件があります」
悠真は、一歩踏み出し、咲良の手をそっと握った。
「七瀬咲良さん。僕と……付き合ってください」
咲良は、一瞬驚いた顔をした後、破顔した。その笑顔は、どんな数学的証明よりも完璧で、美しいものだった。
「ふふ、相原くん」彼女は、握り返した手を強く引いた。「遅いよ。私が**『初期条件を設定しない?』って言った時点で、私たちの関係はもう定義域**に入っていたんだよ」
彼女は、悠真の頬にそっとキスをした。
「答えは、もちろん真(True)だよ。私たちは、今、この瞬間から恋人同士という新しい『公理系』を採用して、無限に続く愛の漸近線を辿り始めるの。よろしくね、悠真」
悠真の青春ラブコメの「解」は、ついに実数解となり、彼の人生は、ロマンチックな非線形な発展を始めたのだった。