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「続く時って続くのね……」
私はため息をつきながらベッドの上に寝転がった。
就職活動でつまずいた私は大学卒業後、派遣社員として働いていたが、数日前に、ここ二年ほど働いてきた派遣先から、年内で契約を終了するとの話を切り出された。
理由は会社の業績悪化のためのコスト削減。こういった場合、やはり非正規社員からクビを切られることは分かっていたつもりだった。しかし働きやすい職場だったから、正社員になりたいと、希望を伝えてみようと考えていた矢先のことだった。
そして昨夜には、付き合って半年の彼にフラれた。しかも電話で。理由は元カノがよりを戻したがっているから、だった。
それを聞いた時、確かに大きなショックを受けはしたが、なぜか涙は出なかった。「別れたくない」と彼に縋るような言葉は、何も思い浮かばなかった。ただ、「分かった」としか言えなかった。実はそこまで彼のことが好きではなかったのか、あるいは。その数日前に起きた派遣の雇い止めの話の方が、失恋という出来事以上にショックだったからかもしれない。
もう一度ため息をつき、気分を変えたくてラジオをつけた。つけ始めのジジッ……という音に、なんだかほっとする。
「スタジオから外が見えるんですが、青空が広がっています。まさに雲一つない空。こんな気持ちのいい日に聴きたい曲ということで、リクエスト頂いています。曲はこちら――」
ラジオから聞こえてきた声に、ある人物の顔がぱっと浮かぶ。私は苦々しく思いながら、ベッドの上に両手両足を投げ出して天井を眺めた。それから、何気なく壁にかけたカレンダーに目をやって、思い出す。
「今夜の飲み会、あの人もやっぱり来るのかしら」
ラジオからはアップテンポの曲が流れている。
私はそれを聴きながら、ぶつぶつと独り言をつぶやく。
「どうせまた、私のことからかって面白がるんだろうな。名前だって未だにちゃんと呼んでくれないし。できるだけ近づかないようにした方が無難よね」
実はこのラジオ番組のパーソナリティは、私の先輩にあたる人だ。私が大学一年生だった時、彼は四年生だった。初めて彼に会った時、素敵な人だと思った。近づきたいと思った。私は彼に恋をしたのだ。それなのに、彼は勝手につけたおかしなあだ名で私を呼んだ。私の顔を見ると絡んできた。むきになって食って掛かればかかる程、彼はますます私をからかった。
『お前のことが、君のことが、可愛いからだよ』
周りのみんなは、そう言って私をなぐさめてくれたけれど、次第に私は彼から距離を置くようになった。彼にとっての私は、ただ単にからかって面白い後輩という存在でしかないのだろうという結論に達したからだ。彼を好きだと思ったのは何かの間違いだったと、その想いを遥か彼方へ葬り去った。その結果、私の中で彼は「苦手な人」というカテゴリーに分類された。
本当はそんな灰色の思い出など、きれいさっぱりさっさと消し去りたいのだが、できなかった。彼の顔と声は私の記憶にしっかりと焼き付いている。その上、離れないどころか更新すらされてしまう。
なぜなら年に数回、未だに彼と顔を会わせる機会があるからだ。おまけにチャンネルをうっかり間違えて変えてしまえば、ニュースを伝える彼の顔が目に飛び込んでくることだってあるのだ。
「みんな、この人の本性なんか知らないだろうな」
皮肉な気分でぼやき、気づく。いつの間にか、私の頭は苦手な先輩のことでいっぱいになっていた。そのおかげなのか、重なった不運へのショックが多少和らいでいた。
「落ちこんでいたって何も解決しないものね。とにかく飲み会。何を着て行こうかな」
私はラジオを止めて立ち上がった。苦手な先輩ただ一人のために、せっかく気分転換になりそうな集まりに行かないという選択肢はない。
私が入っていたサークルは放送研究会と言った。短編映画を作ったり、ラジオドラマを作ったりと、そんな活動をして楽しんでいた。
公に発表するような作品を作っていたわけではなかったが、月に一度の割合で制作していたラジオドラマは、昼の時間帯に学生食堂で流してもらうこともあった。
また、このサークルには、例えばテレビやラジオといった放送業界への志望者たちも多く在籍していて、現場で活躍している先輩たちも多い。
縦も横もその繋がりは密な方だと思う。大学を卒業してからも、サークルの集まりに顔を出す先輩たちが多かった。年に数回程度、四季折々に何かと口実をつけて集まるOBOG会は、その流れからいつの間にやら立ち上がったものらしい。
ちなみにただいまの季節は秋。私にとっては、大学卒業後三年目の秋となる。
今回の集まりの目的は「夏を惜しむ」。夏が終わってからだいぶ時が過ぎてはいるが、結局のところ、何でもいいから適当な理由をつけて集まりたいだけなのだ。
そしてこの場にはほぼ毎回のように、私の苦手な先輩、矢嶋彬も顔を出していたが、今回もやはり彼の姿があった。
彼とは離れた場所にいよう――。
そう決めて、矢嶋とは対角線上に当たる最も遠い場所に座っていたはずなのに、なぜだ。気づいた時には隣に彼が座っていた。ついさっきまで、そこには仲良しの本田藍子がいた。しかし、ちょっとお手洗いにと言って、彼女が席を離れた隙に、矢嶋が当たり前のように私の隣に腰を下ろしたのだ。
はじめ私は、彼がそこに来たことに気づかないふりをしていた。
しかしそんなことなど気にした様子もなく、矢嶋は話しかけてくる。
「久しぶりだな。しかしお前の頬っぺた、いつ会っても『たこ焼き』乗っけてるみたいだな」
たこ焼き……。
どうしてそんな呼び方をするのか確かめたことはなかったけれど、想像はつく。大学一年生、つまりまだ十代だった私は、笑うと頬の辺りが丸く盛り上がるという、今と比べるとだいぶふっくらとした顔をしていた。今はもう体全体が引き締まってそうではなくなったが、それでも彼は相変わらずそんなことを言う。苛立った私の眉間にしわが寄った。私は深々と息を吐いて、彼の方を見ないまま言った。
「あら、先輩。いたんですか。先輩こそ、相変わらず感じ悪いですね。私の隣はつまらないでしょう?あっちでみんなと飲んだらどうです?」
つんとして嫌みったらしく言ってやったのに、矢嶋は全く動じない。目の端に写り込んだ彼はむしろ愉快そうに見えた。
「お前をからかってる方が楽しいんだよ」
「私は、先輩のおもちゃではありません」
「ふくれっ面すると、ますますたこ焼きが大きくなるぜ」
「たこ焼きたこ焼きって、連呼しないでください。うるさいです」
相手が先輩だと分かってはいても、黙っていられなくなる。
「立場の弱い後輩をからかって喜んでるなんて、そんな人がアナウンサー?本性を隠して公衆の面前に顔を出しているなんて、ほんっと信じられない」
私はぷいっとそっぽを向いた。
矢嶋がくすっと笑ったのが聞こえる。
「だけど俺、本当のことを言ってるだけだぞ?お前ももう社会人三年目なんだろ?それなのに、学生時代と全然変わんないんだもんな。色気のかけら一つ見当たらないじゃないか。そんなんじゃ男もできないだろ」
言っている内容に似つかわしくない美声で、矢嶋はそんなことを言う。
神経を逆なでするような彼の物言いに腹が立ち、私はふんっと鼻息も荒く、彼を睨みつけた。
「どうせ私は色気がないですよ。カレにフラれましたよ。先輩だってその口の悪い所、ほんと、変わらないですよね。さっきも言いましたけど、私、先輩のおもちゃじゃないです。先輩が動かないんなら、私が移動しますから、どうぞこの場所でごゆっくり。市川!私の分もそれ頼んで!」
私は矢嶋に向かってまくしたて、さっと席を立った。その時ちらと目に入った彼は、呆気にとられたような顔をしていた。顔を合わせる度に私をからかってばかりいる彼に、そういう表情をさせることができたと留飲を下げながらも、ちょっぴり後悔する。
感情的になりすぎたかな――。
私は繋げられたテーブルをぐるりと回って、同じ学年で同じゼミだった市川健次郎の隣まで行き、矢嶋がいる側に背中を向けて座った。
市川は苦笑しながら、私と矢嶋を交互にちらりと見た。
「矢嶋さんのこと、一人にしていいのかよ?」
私は肩をすくめて答えた。
「いいのよ。だってあの人、私のことをからかって楽しんでるだけなんだもの。こっちはその度に不愉快な気分になるし。ほんと、意地悪で悪趣味だわ。まったく腹が立つ」
「それは、夏貴のことを気に入ってるからじゃないのか?傍から見てると、楽しそうだぜ。じゃれ合ってるっていうか」
市川がくくっと笑う。
「やめてよ。楽しんでるのはあの人だけなんだから」
「そう言いながら、夏貴も結局はいちいち反応してるんだろ?本当に嫌いだったら、相手にしなきゃいいじゃん」
「別に嫌いってわけでは。それに……」
私は氷だけになったグラスを回す。
「一応は先輩だし……」
「それなら適当に言い訳作って、さっさと他の場所に移ればいいのに」
「そうは言うけど、タイミングが難しいのよね」
市川の言葉はいちいちその通りなのに、なぜか言い訳がましく答えてしまう。
すると彼は私をまじまじと見て、にやりと笑った。
「本当は夏貴、先輩に構われるの、嫌じゃないんじゃないの?」
「そんなわけないでしょっ」
私はキッと市川をにらんだ。
「しつこくからかわれてみなさいよ。本当に気分が悪いんだから。あの人が来る限り、この不愉快な気分になるのは避けられないのかなぁ。今度から参加するの、考えちゃうな」
ため息をつく私の頭を、市川はなだめるように撫でる。
「まぁまぁ、そんなこと言うなって。それに今日はせっかく久しぶりに会ったんだ。気分を変えて楽しく飲もう。ほら、藍子も戻ってきた。おぉい、藍子!夏貴はこっちにいるぜ!」
市川は手を高く上げて、藍子に合図を送る。
私と市川に気がついて彼女がいそいそとやって来るのを待っている時、矢嶋の姿がふと目に入った。
彼はいつの間にか数人に囲まれていた。話が盛り上がっているようで、楽しそうに笑っている。
その様子を見たら、胸の中にもやもやしたものが急速に広がった。
なによ。私には意地悪な顔しか見せないくせに――。
注文していたサワーのグラスが目の前に置かれた。それに手を伸ばした私は、灰色の気分を払うようにぐいっとそのグラスを傾けた。